(-人-)なぁむぅぅ
(-人-)なぁむぅぅ
リング教って仏教系なのかな
正座つらたんΩ\ζ°)チーン
今日はキズナとアイの話をしよう
「比丘たちよ、絆を美味しいと思って見ていると、愛が成長する。
愛によって取があり、取によって有があり、有によって生まれ変わりがあり、
生まれ変わりによって老いと死と、悲しみ・嘆き・痛み・憂い・悩みが生起する。
このようにしてすべての苦蘊が生起する。
「例えば比丘たちよ、油と灯芯によって油灯が燃えているとする。
そこに男が時々油を注ぎ、灯芯を集めるとする。
すると比丘たちよ、その油灯は、それを摂取し、それを取り込んで、
ずっと、長い間燃えるだろう。
ちょうどそのように比丘たちよ、絆を美味しいと思って見ていると、愛が成長する。
愛によって取があり、取によって有があり、有によって生まれ変わりがあり、
生まれ変わりによって老いと死と、悲しみ・嘆き・痛み・憂い・悩みが生起する。
このようにしてすべての苦蘊が生起する。
「比丘たちよ、絆に危険を見ていると、愛は滅する。愛の滅尽によって取は滅する。
取の滅尽によって有は滅する。有の滅尽によって生まれ変わりは滅する。
生まれ変わりの滅尽によって老いと死と、悲しみ・嘆き・痛み・憂い・悩みは滅する。
このようにしてすべての苦蘊は滅する。
「例えば比丘たちよ、油と灯芯によって油灯が燃えているとする。
そこに男が時々油を注がず、灯芯を集めないとする。
すると比丘たちよ、その油灯は、始めの燃料が尽きて、他に摂取するものがなくなると、
摂取するものがないので消えるだろう。
ちょうどそのように比丘たちよ、
絆に危険を見ていると、愛は滅する。愛の滅尽によって取は滅する…
このようにしてすべての苦蘊は滅する」
さて「無明」から「老死」まで十二個の単語が並んだ「十二支縁起」というのを
大乗の坊さんはかなり大ごとにとらえている
「無明」(ignorance) がすべての苦の原因なのだ、などど彼らは言う
しかもどうも「空」の概念が十二支縁起と混じりあっている気がしなくもない
しかしパーリの経をすべてつぶさに読むと
実は十二支縁起が十一支しかなかったり十三支だったりして
しかもその始まりは「無明」とは限らない
仏が死んでいろんな人が諸説を唱えて最終的に十二個に落ち着いたんだなあという感想がある
上に引用した経はそのいろんな縁起の中でも一番短いやつで
「絆」→「愛」→「取」→「有」→「生」→「老死」
と六支の縁起になっている
そして変な哲学が介入していなくてとてもわかりやすい
だから俺はこれが好きだ
「愛」というのはキリスト教の charity ではない (charity を仏教では慈などと言う)
愛は渇望のことだ
また「取」は「有 (to be; 世界に存在すること)」のために人が摂取しているもののことで
喩えるならランプの火が「有」でその燃料が「取」だ
「取」はいくつかある
欲も「取」だが、「戒律・儀式」とか「魂についての理論」とかも「取」だ
つまり滑稽な戒律を守り儀式を行い
現世を耐え抜いた後の魂の救済を信じるという愚行によって
「愛」(渇望) の成就しないクソゲーな世の中を人はかろうじて生きているわけだ
そしてこういう生き方をすると「生」つまり「生まれ変わり」という考え方が必要になる
「現世はクソゲーだけれども神に仕えれば天国に生まれ変われるよ」という嘘が必要になる
そしてそんな嘘の理論で自分の人生を正当化している人には
老いと死と、悲しみ・嘆き・痛み・憂い・悩みが生起する
このようにしてすべての苦蘊が生起する
宗教によって不幸を招く愚かな世の中を見て
仏は二種類の解を示した
一つは上の経にあるように絆を捨てること
絆を捨て世を捨て働かずに乞食で楽に生きること
しかし多くの人はそんなことできない
出家しない人に向けた経の中で仏は、要約すればこんな意味のことを言っている
神に祈っても無駄だ
つべこべ言わずに勉強して働いて金を稼げ
金があれば自分も血縁者も友人も喜ばせることができる
今日の法話はこんなところかね
>働かずに
もしかしてニートって本能的に教えを実行…
いやまさかな
原始仏教あたりのお話聞きたい
弱小部族の部族闘争から始めるのか
臨済録とかやたらキャラ立ってるし行動がナンセンスギャグっぽくて楽しく読めた
ねっぷイイな
個性的なスレ
経典の話とか見ると興味深いよね
https://apps.apple.com/jp/app/%E9%9B%B2%E5%A0%82-classic/id418510732
座禅組んでるねっぱーいる?
このアプリでやってるんだけど10分瞑想するだけでもかなり大変
20分やりたいんだけど徐々に増やしていこうかな
これ気づいたんだけど瞑想は賢者タイムにやると捗るよ
無理せず体調に合わせて徐々に増やすのがいいよ
あと知ってるかもしれないけど、正しい方法を実践すれば少しは楽になると思う
https://www.soto-kinki.net/zazen/beginner.php
>>17
一応上のアプリで始める前に毎回ガイドしてくれるからわかるよー
とはいえいつ終わるかわからなくてずっと瞑想してるのは不安で難しいね…
終わりの鐘で元に戻る時のぐわわって感じいいな
クッションで代用してるけど坐禅用の座布団買った方がいいのかな
たしか仏教では怒りとは3つの悪のひとつだっけか
いまの日本ってストレスのネタがそこら中に転がってて仏教のオーラがだんだん薄れてきてるのかも
怖えぇ
古い時代から末法は予言されてたもんなあ
最初は教え・修行・悟りの三つがあったけど、だんだん教えと修行を真似るだけになり、今は教えしか残っていない時代
クッションでも座布団でも丁度良いと思う物使えば良いんじゃよ
具合を見て考えてみるんじゃよオパソ
カービィすやすやフレンドに座ってやってる
これが意外といいんだ
>>22
本当に厳しそうだもんな…
冬の早朝に起床して清掃したり
滝で水浴び読経したり比叡山を何日も歩いたり
ゴマだけ食べてみたり呼吸を止めてみたり
仏は慈しみ(mettaa)と憐れみ(karunaa)と優しさ(muditaa)とに並べてなぜか無関心(upekkhaa)を挙げた
これを忘れてはいけない
ああ可愛そうだなと思うと同時に人のことなどどうでもいいと思うこと
どっちが欠けてもダメ
近年ところかまわず怒ってる人たちには無関心が足りない
これは自分事ではないし、これは自分ではないし、これは自分の魂ではない
怒りそうになったらこう唱えよう
自分と関係ないものに怒ったり悲しんだりする道理はない
友情と同情と優しさを失わない程度に無関心になろう
また仏はこんなことを言った
「他人に『お前の信じているもの(信仰やら思想やら)は馬鹿だ』とはいくらでも言ったらいいが
『そんなことを信じているお前は馬鹿だ』とは言ってはならない」
現代風に言えば人格批判はダメってことだな
昨今何らかの思想よりも人そのものが非難されることが多くなった
あと最近思うのは法と如についてかなあ
法(dhamma)は自然法則のこと
例えば悪人が地獄に生まれ変わるのはそれが自然法則だからであって
決して創造神や閻魔の意志のせいではない
悪人が地獄に落ちるのは石が水に沈むようなもんだと仏は言う
如(tathaa)は事実のこと
法と如とどっちが大事か?法則と事実とどっちが大事か?
学問的に価値があるのは法則のほうだが
観測事実が法則にあわないときは
法則だと思っていたもののほうが思い込みに過ぎなかったのだと
反省するのが科学精神だ(なおこれは俺の主張であってそんなことの書かれたお経はたぶんない)
法に固執して「こうあるべきだ」と怒ったところで
如はどうにもならない
そういうときは法だと思い込んでいるもののほうを変えよう
それは法でないことが如によって反証されてしまったのだから
鎌倉仏教についてアメリカ人が語る「ミッドナイトゴスペル」ってアニメおすすめするよ
>>30
なんか仏教について学ぶのはいいけど
伝えたいことが先行してて恣意的な学び方してる気がする
ちなみに法は自然法則だと言ったが
現実には心理学的な法則に宗教をかぶせたものだと思った方がいい
仏は生まれ変わる魂など存在しないと言った
にもかかわらず先祖崇拝は大事だと言った
「魂はないんだけど生まれ変わりはあるんだよ
薪の火が村に燃え移ったとき
薪の火は村を焼いた火そのものではない
でも薪の火の『せいで』村の火が生じた
生まれ変わりっていうのはそういうことなんだよ」
などと明らかに苦しい言い訳をして
先祖の魂ではなく先祖のせいで生まれた化け物 = 先祖霊を
崇めろと仏は言う
なぜそんなわけわからん理論で信者たちに先祖崇拝をさせたのか?
先祖をないがしろにする人は他人からみたらイカレている
イカレていると周囲に思われた人は幸せになれない
それが「法」だからだ
>>32
俺はmula tipitakaにしか興味がない
mula tipitakaを全部読み
それを読むためにatthakathaをつまみ読みした
それを源泉に語っているだけで
もはや学んではいない
学びたいことはすべて学んだ
ねっぷってなんでこんなキチガイが惹かれるところなんだろう・・・
ねっぷとは、南緯47度9分西経126度43分に存在する掲示板
世界中の精神に異常をきたすものが集まり、邪神崇拝者たちが活動しているという
やっぱパーリ学ぶなら中村元先生のがいいのかね
眠れんので瞑想します
一般に○○を学ぶには○○のテキストを読むしかない
パーリのテキストはインターネットにあって
tps://tipitaka.org/deva/
(ローマ翻字版のが読むには楽だが脱落箇所がたまにあるからこちらがよい)
こには各地方によるテキストの異同も注釈されてる
和訳には訳者の思想が反映されているし
解説とか要約とかはソースに無関係な訳者の考えでしかない
そういうのは「そういう考えもあるのかあ」と横目で見てもいいが
孫引きで考えるのはダメ
伝言ゲームはやめよう
西洋哲学を和訳で考えるのがありえないのと同じだ
すげえアーカイブ化されてるのか助かる!
ちなみに小乗になんか興味ないわ俺は大乗仏教徒なんだという人は
tps://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ を読もう
俺は大乗にまったく興味がないがパーリの一部は「阿含部」というところに漢訳されていて見比べると面白い
例えば仏説五蘊皆空経 (阿含部/第2巻/T0102) を読むと
この内容の経に「空」と題名を付けた人の思っていた「空」の解釈が想像できる
とにかく何事も自分の目で確かめることが大事なことだ
仏もそう言ってる
「自分の目で見たものは他人がどういちゃもんつけようが揺るがない(不動)」
法話を聞かせておくれよ
じゃあ俺の好きな経を貼るわ
「ほら吹き」
あるとき世尊はナーランダーのパーヴァーリカンバ林にいた。するとニガンタの弟子であるアシバンダカプッタ村長が
世尊のところにやってきた。やってくると、片端に座った。片端に
座ったアシバンダカプッタ村長は、世尊にこう言った。「村長、ニガンタ・ナータプッタは、
弟子たちにどのような法を説いているのか?」「大徳よ、ニガンタ・ナータプッタは、弟子たちにこのように
法を説いている――『生き物を殺す者は皆、地獄行きである。与えられぬ物を取る者は皆、
地獄行きである。快楽について邪な行いをする者は皆、地獄行きである。うそをつく者は皆、
地獄行きである。各自が最も多く従事するものによって人は導かれる』と。大徳よ、
ニガンタ・ナータプッタは、弟子たちにこのように法を説いている」「村長、『各自が最も多く従事するものによって人は導かれる』
というのがそうであるならば、ニガンタ・ナータプッタの言葉のようには、誰も地獄行きに
ならないだろう。
「これをどう思うか村長、生き物を殺す男は、夜や昼の時間で言えば、
どちらの時間が多いか。彼が生き物を殺している時間か、彼が生き物を殺していない時間か?」
「大徳よ、生き物を殺す男は、夜や昼の時間で言えば、生き物を殺している時間のほうが少なく、
生き物を殺していない時間のほうこそが多い」「村長、
『各自が最も多く従事するものによって人は導かれる』というのがそうであるならば、ニガンタ・ナータプッタの言葉のようには、
誰も地獄行きにならないだろう。
「これをどう思うか村長、与えられぬ物を取る男は…快楽について邪な行いをする男は…うそをつく男は、夜や昼の時間で言えば、
どちらの時間が多いか。彼がうそをついている時間か、彼がうそをついていない時間か?」
「大徳よ、うそをつく男は、夜や昼の時間で言えば、うそをついている時間のほうが少なく、
うそをついていない時間のほうこそが多い」「村長、
『各自が最も多く従事するものによって人は導かれる』というのがそうであるならば、ニガンタ・ナータプッタの言葉のようには、
誰も地獄行きにならないだろう。
「ここに村長、ある師はこう言い、こう信じている
『生き物を殺す者は皆、地獄行きである。与えられぬ物を取る者は皆、地獄行きである。
快楽について邪な行いをする者は皆、地獄行きである。うそをつく者は皆、地獄行きである』と。
村長、弟子はその師を信頼している。彼はこう思う『私の師は
こう言い、こう信じている〈生き物を殺す者は皆、地獄行きである〉と』と。『しかして私は生き物を
殺したことがある。私もまた地獄行きなのだ』と信じるようになる。村長、その言葉を捨てず、その心を
捨てず、その信仰を手放さなければ、引きずられるままに地獄に落ちる。
『私の師はこう言い、こう信じている〈与えられぬ物を取る者は…快楽について邪な行いをする者は…
うそをつく者は皆、地獄行きである〉と』と。
『しかして私はうそをついたことがある。私もまた地獄行きなのだ』と信じるようになる。村長、
その言葉を捨てず、その心を捨てず、その信仰を手放さなければ、引きずられるままに地獄に落ちる。
「村長、ここに、応供・正遍知・明行足・
善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏世尊である如来が世に生まれた。私は
さまざまの方便によって生き物を殺すことを非難して『お前たちは生き物を殺すことをやめよ』と言う。
与えられぬ物を取ることを…快楽について邪な行いをすることを…うそをつくことを非難して
『お前たちはうそをつくことをやめよ』と言う。
村長、弟子はその師を信頼している。彼はこう考える『世尊はさまざまの方便によって
生き物を殺すことを非難して〈お前たちは生き物を殺すことをやめよ〉と言う。しかして私はあれくらいかこれくらい
生き物を殺したことがある。私があれくらいかこれくらい生き物を殺したのは、良くない。
好ましくない。しかしもし私がそれによって後悔するならば、これからは私は悪業を
為さないだろう』と。彼はこう考えて、生き物を殺すことを
捨てる。それ以降生き物を殺すことを避ける。こうしてその悪業は消える。こうしてその
悪業は乗り越えられる。
「『世尊はさまざまの方便によって、与えられぬ物を取ることを…快楽について邪な行いをすることを…
うそをつくことを非難して〈お前たちはうそをつくことをやめよ〉と言う。
しかして私はあれくらいかこれくらいうそをついたことがある。私があれくらいかこれくらい
うそをついたのは、良くない。好ましくない。しかしもし私がそれによって後悔するならば、
これからは私は悪業を為さないだろう』と。彼はこう考えて、うそをつくことを
捨てる。それ以降うそをつくことを避ける。こうしてその悪業は消える。こうしてその
悪業は乗り越えられる。
「彼は生き物を殺すことを捨てて、生き物を殺すことを避ける。
与えられぬ物を取ることを捨てて、与えられぬ物を取ることを避ける。
快楽について邪な行いを捨てて、快楽について邪な行いを避ける。うそをつくことを捨てて、うそをつくことを
避ける。両舌[ここで聞いたことをあっちに告げ口し、あっちで聞いたことをここで告げ口すること]を言うことを捨てて、
両舌を言うことを避ける。粗暴な言葉を捨てて、
粗暴な言葉を避ける。おしゃべりを捨てて、おしゃべりを避ける。強欲を
捨てて、強欲でなくなる。悪意と瞋恚を捨てて、悪意のない心を持つ。邪な信仰を捨てて、
正しい信仰をする。
「村長、その聖なる弟子は、こうして強欲を離れ、悪意を離れ、迷妄でなく、注意をもち、
念をもって、慈しみを伴う心を一方向に広げる。それから二つめ、三つめ、四つめの方向に
広げる。そうして上も下も横も、すべての世界に、
巨大な、大きな、測り知れない、敵意のない、悪意のない、慈しみを伴う心を広げる。例えば居士よ、力強い
ほら吹きが、難なく四方に音を届けるように、ちょうどそのように村長、慈しみの心解脱を
このように育て、このように増やした者には、限界を作る業は残っていない。
存在しない。
「村長、その聖なる弟子は、こうして強欲を離れ、悪意を離れ、迷妄でなく、注意をもち、
念をもって、憐れみを伴う心を…優しさを伴う心を…無関心を伴う心を
一方向に広げる。それから二つめ、三つめ、四つめの方向に広げる。そうして上も下も横も、
すべての世界に、巨大な、大きな、測り知れない、
敵意のない、悪意のない、無関心を伴う心を広げる。例えば居士よ、力強いほら吹きが、
難なく四方に音を届けるように、ちょうどそのように村長、無関心の心解脱をこのように育て、
このように増やした者には、限界を作る業は残っていない」
そう言うと、アシバンダカプッタ村長は世尊にこう言った。「素晴らしい、大徳よ。素晴らしい、大徳よ!
例えば大徳よ、うつぶせのものを仰向けにするように、覆われたものから覆いを取るように、迷える者に道を
示すように、暗闇に『眼のある者たちは姿が見えるだろう』と油灯を持ち込むように。ちょうどそのように
世尊はさまざまの方便によって法を説いた。大徳よ、この私は世尊と
法と比丘僧伽に帰依しよう。世尊は私を、今日から命ある限り帰依する優婆塞として覚えてくれ」
(サンユッタ・ニカーヤ/六処/08.村長/01.チャンダ/08.ほら吹き)
改行がおかしいのは俺の作った全訳テキストファイルからのコピペだからだ
さて、この経の面白いところは「地獄」という概念が
実は人を正しい方向に導くための道具に過ぎないことを仏が自白しているところだ
天国だ地獄だ神様だという概念は人を導くための道具であって、
正しく使えない人が使うと害悪でしかないと仏はここで言っている
この経は坊さんではない一般の信者向けの話だけれども
無我について「何物も我でないのなら私は存在しないのか??」と
哲学的な思惟に入ろうとする弟子を制止して
「無我の概念はそういうふうに使うんじゃなくてだなあ…」
と正しい使い方を説くお経も俺の記憶違いでなければある
(そのはずなのだが今すぐには見つけられなかった)
付け加えるなら
誰も地獄を信じない現代において「地獄行き」に相当する単語は何か
「○○した者は皆、地獄行きである」と言うニガンタ (ジャイナ教の教祖) に相当するのは誰か
○○する者を減らしたかったらどうせよと仏は言っているのか
そういうふうに考えてみるとよい
特有の 繰り返し何度も頭から全部言い直す問答、たまらん
奈良の開眼供養って752年だったっけ
1270年の歴史スゴいな
哲学的思惟に入ってはいけないのだ
「無我」という概念はこういう道筋でこういう結論を導くためだけにあるのだ
という話が載ってるお経はたぶんこれだった
「満月」
あるとき世尊はサーヴァッティーの東園の鹿母講堂に、
大きな比丘僧伽とともにいた。そのとき世尊は布薩日十五日の、満月の夜に、
比丘僧伽に囲まれて、野外に座っていた。
とある比丘が座を立って、片方の肩に上衣を掛けて、世尊に向けて合掌して、世尊にこう言った。
「大徳よ、私は世尊にある点について問いたい。もし世尊が私に、問いに答える機会を作ってくれるなら」
「ならば比丘よ、お前は自分の座に座って、好きなように問え」
「わかった、大徳よ」とその比丘は世尊にうなづいて、自分の座に座って、世尊にこう言った。
「大徳よ、これらが五取蘊か――色取蘊、受取蘊、想取蘊、行取蘊、識取蘊が?」
「比丘よ、それらが五取蘊である。すなわち――色取蘊…識取蘊である」
「よいぞ、大徳よ」とその比丘は世尊の話を喜んで、満足して、世尊にさらに問いを問うた。
(省略: 五取蘊についての問答が繰り返される)
そのときとある比丘に、このような心の思いが浮かんだ。
「ああ、このとおり色は無我だ。受…想…行…識は無我だ。
無我であるものが為した業が、どうして自我に触れられようか」
すると世尊は、その比丘の心に思うことを心で知って、比丘たちに呼びかけた。
「比丘たちよ、ある馬鹿者が、わからずに、無明のまま、愛に支配された心によって、
師の教えを早とちりすることがありうる
『ああ、このとおり色は無我だ。受…想…行…識は無我だ。
無我であるものが為した業が、どうして自我に触れられようか』
比丘たちよ、私はそれぞれの事柄についてお前たちに問うて導こう。
「これをどう思うか比丘たちよ、色は恒常か、無常か?」
「無常だ、大徳よ」
「受は…想は…行は…識は恒常か、無常か?」
「無常だ、大徳よ」
「では、無常であるものは苦か、幸せか?」
「苦だ、大徳よ」
「では、無常であり、苦であり、劣化するものを、こう見ることは適切か
『これは私のものだ。私はこれだ。これが私の魂だ』と?」
「いいや、大徳よ」
「だからして比丘たちよ、過去・未来・現在、内外、大小、貴賤、遠近の、
すべての色を『これは私のものでない。私はこれでない。これは私の魂でない』と、
このように真実のとおりに正しい知恵によって見るべきである。
過去・未来・現在、内外、大小、貴賤、遠近の、すべての受…想…行…識を
『これは私のものでない。私はこれでない。これは私の魂でない』と、
このように真実のとおりに正しい知恵によって見るべきである。
「比丘たちよ、このように見ている、教えを聞いた聖なる弟子は、色について厭離する。
受…想…行…識について厭離する。厭離する者は離貪する。離貪によって解脱する。
解脱すれば解脱したという知が生じる。彼は
『生まれ変わりはなくなった。梵行は完成した。やるべきことはやり終えた。
このような命に次はない』と知る」
サンユッタ・ニカーヤ/蘊/01.蘊/08.食い物/10.満月
アングッタラ・ニカーヤでもアーナンダが似たような教えを説いていて
アングッタラ・ニカーヤのほうを探していたから見つからなかった
>>57 で言ってる「色」はいゆる「空即是色」の「色」?
よくわからない
色、というのは目で見えるもののこと。物体の姿と解釈したほうがよさげなこともあるし、
形而上的な何かではなく具体的に存在する物理的な物体と解釈したほうがよさげなこともある
人は「私」とはなんだろう?と考えることがある
私の姿、私の物理的な身体が「私」なのだろうか?
私の心が「私」なのだろうか?
ここでいう「私」は魂だと思ってもよい
私の魂は私のどこに宿っているのだろう?
「私」とは「私の身体 (=色シキ) だ」という宗教家もいる
「私」とは「世界を感じる機能 (=受) だ」という宗教家もいる
「私」とは「黄色を黄色いと思う機能 (=想) だ」という宗教家もいる
「私」とは「ものを概念に当てはめる機能 (=行) だ」という宗教家もいる
「私」とは「ものを認識する機能 (=識) だ」という宗教家もいる
(たぶん受も想も行も識も、十把一絡げに「心」だと考えてよい
提唱した思想家が異なるから単語が違うだけだと俺は思っている)
仏はどれも違うと言う
違うというよりも、そんなふうに考えると苦しいだけだからやめろと言う
良い見た目に生まれた人たちは自分の見た目に誇りを持っているかもしれない
これが私の見た目 (色) だと思っているかもしれない
私とはこの見た目の物体のことだと思っているかもしれない
でも人は老いる
事故や病気で四肢を失う人もいる
それで昨日まで私のものだったものが今はない、と悲しむことになる
そもそも私の身体は私なのだろうか?
もし私の身体が私なら、私はこうでありたい、こうなりたい、と思ったらその意志のとおりに動けるはずだ
いつまでもピチピチなお肌を保ちながらイケメンな顔になれるはずだ
そうしたら病になるはずがない
でも私は病になる
ならば仮定が間違っている
私の体は私ではない
だから「これは私のものでない。私はこれでない。これは私の魂でない」と考えるのがよい
例えば他人が私のスマホを落として壊したら私は怒る
でも他人が他人のスマホを落としても
「あー可哀そうだな」と思うだけで怒りはしない
この「あー可哀そうだな」と思う心が「憐れみ」で
怒らない悲しまないのが「無関心」
私の体も私の心も、他人のスマホみたいなものだと思えと仏は言っている
それが「無我」ということ
この「無」は an- (英語の un-, non-) の訳語なので
「我がない」のではなく「我ではない」という意味
ところがそういう会話をする仏と弟子の話を傍聴していた別の弟子が
「私の身体が私でないというなら、私の手が窃盗しても私の罪にならなくね?」
と思った
それで仏は「無我という概念はそう考えるためのものではない」と言った
これはそういうお経
最初の質問に戻ると、この経の「色」は「色即是空」の「色」と同じ
色即是空・空即是色の後ろに受想行識亦復如是 (受・想・行・識もまたまたかくのごとし) と続くことからもわかる
ただ般若心経の時代になると諸法空相のゆえに不生不滅で~という哲学にすり替わってしまっている
この「馬鹿者」の考えと似ている
おもしろい
わかるようでわからなくなる
何度も読むよ