色、というのは目で見えるもののこと。物体の姿と解釈したほうがよさげなこともあるし、
形而上的な何かではなく具体的に存在する物理的な物体と解釈したほうがよさげなこともある
色、というのは目で見えるもののこと。物体の姿と解釈したほうがよさげなこともあるし、
形而上的な何かではなく具体的に存在する物理的な物体と解釈したほうがよさげなこともある
人は「私」とはなんだろう?と考えることがある
私の姿、私の物理的な身体が「私」なのだろうか?
私の心が「私」なのだろうか?
ここでいう「私」は魂だと思ってもよい
私の魂は私のどこに宿っているのだろう?
「私」とは「私の身体 (=色シキ) だ」という宗教家もいる
「私」とは「世界を感じる機能 (=受) だ」という宗教家もいる
「私」とは「黄色を黄色いと思う機能 (=想) だ」という宗教家もいる
「私」とは「ものを概念に当てはめる機能 (=行) だ」という宗教家もいる
「私」とは「ものを認識する機能 (=識) だ」という宗教家もいる
(たぶん受も想も行も識も、十把一絡げに「心」だと考えてよい
提唱した思想家が異なるから単語が違うだけだと俺は思っている)
仏はどれも違うと言う
違うというよりも、そんなふうに考えると苦しいだけだからやめろと言う
良い見た目に生まれた人たちは自分の見た目に誇りを持っているかもしれない
これが私の見た目 (色) だと思っているかもしれない
私とはこの見た目の物体のことだと思っているかもしれない
でも人は老いる
事故や病気で四肢を失う人もいる
それで昨日まで私のものだったものが今はない、と悲しむことになる
そもそも私の身体は私なのだろうか?
もし私の身体が私なら、私はこうでありたい、こうなりたい、と思ったらその意志のとおりに動けるはずだ
いつまでもピチピチなお肌を保ちながらイケメンな顔になれるはずだ
そうしたら病になるはずがない
でも私は病になる
ならば仮定が間違っている
私の体は私ではない
だから「これは私のものでない。私はこれでない。これは私の魂でない」と考えるのがよい
例えば他人が私のスマホを落として壊したら私は怒る
でも他人が他人のスマホを落としても
「あー可哀そうだな」と思うだけで怒りはしない
この「あー可哀そうだな」と思う心が「憐れみ」で
怒らない悲しまないのが「無関心」
私の体も私の心も、他人のスマホみたいなものだと思えと仏は言っている
それが「無我」ということ
この「無」は an- (英語の un-, non-) の訳語なので
「我がない」のではなく「我ではない」という意味
ところがそういう会話をする仏と弟子の話を傍聴していた別の弟子が
「私の身体が私でないというなら、私の手が窃盗しても私の罪にならなくね?」
と思った
それで仏は「無我という概念はそう考えるためのものではない」と言った
これはそういうお経
最初の質問に戻ると、この経の「色」は「色即是空」の「色」と同じ
色即是空・空即是色の後ろに受想行識亦復如是 (受・想・行・識もまたまたかくのごとし) と続くことからもわかる
ただ般若心経の時代になると諸法空相のゆえに不生不滅で~という哲学にすり替わってしまっている
この「馬鹿者」の考えと似ている