ねっぷお坊様部 ID:RvC8ffAP

28以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2022/01/30(日) 21:48:32.24 ID:RvC8ffAP

仏は慈しみ(mettaa)と憐れみ(karunaa)と優しさ(muditaa)とに並べてなぜか無関心(upekkhaa)を挙げた
これを忘れてはいけない
ああ可愛そうだなと思うと同時に人のことなどどうでもいいと思うこと
どっちが欠けてもダメ
近年ところかまわず怒ってる人たちには無関心が足りない
これは自分事ではないし、これは自分ではないし、これは自分の魂ではない
怒りそうになったらこう唱えよう
自分と関係ないものに怒ったり悲しんだりする道理はない
友情と同情と優しさを失わない程度に無関心になろう

29以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2022/01/30(日) 22:03:08.10 ID:RvC8ffAP

また仏はこんなことを言った
「他人に『お前の信じているもの(信仰やら思想やら)は馬鹿だ』とはいくらでも言ったらいいが
『そんなことを信じているお前は馬鹿だ』とは言ってはならない」
現代風に言えば人格批判はダメってことだな
昨今何らかの思想よりも人そのものが非難されることが多くなった

30以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2022/01/30(日) 22:26:07.99 ID:RvC8ffAP

あと最近思うのは法と如についてかなあ
法(dhamma)は自然法則のこと
例えば悪人が地獄に生まれ変わるのはそれが自然法則だからであって
決して創造神や閻魔の意志のせいではない
悪人が地獄に落ちるのは石が水に沈むようなもんだと仏は言う

如(tathaa)は事実のこと
法と如とどっちが大事か?法則と事実とどっちが大事か?
学問的に価値があるのは法則のほうだが
観測事実が法則にあわないときは
法則だと思っていたもののほうが思い込みに過ぎなかったのだと
反省するのが科学精神だ(なおこれは俺の主張であってそんなことの書かれたお経はたぶんない)

法に固執して「こうあるべきだ」と怒ったところで
如はどうにもならない
そういうときは法だと思い込んでいるもののほうを変えよう
それは法でないことが如によって反証されてしまったのだから

33以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2022/01/30(日) 22:52:05.96 ID:RvC8ffAP

ちなみに法は自然法則だと言ったが
現実には心理学的な法則に宗教をかぶせたものだと思った方がいい
仏は生まれ変わる魂など存在しないと言った
にもかかわらず先祖崇拝は大事だと言った

「魂はないんだけど生まれ変わりはあるんだよ
薪の火が村に燃え移ったとき
薪の火は村を焼いた火そのものではない
でも薪の火の『せいで』村の火が生じた
生まれ変わりっていうのはそういうことなんだよ」

などと明らかに苦しい言い訳をして
先祖の魂ではなく先祖のせいで生まれた化け物 = 先祖霊を
崇めろと仏は言う

なぜそんなわけわからん理論で信者たちに先祖崇拝をさせたのか?
先祖をないがしろにする人は他人からみたらイカレている
イカレていると周囲に思われた人は幸せになれない
それが「法」だからだ

34以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2022/01/30(日) 23:01:47.66 ID:RvC8ffAP

>>32
俺はmula tipitakaにしか興味がない
mula tipitakaを全部読み
それを読むためにatthakathaをつまみ読みした
それを源泉に語っているだけで
もはや学んではいない
学びたいことはすべて学んだ


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