今日はキズナとアイの話をしよう
今日はキズナとアイの話をしよう
「比丘たちよ、絆を美味しいと思って見ていると、愛が成長する。
愛によって取があり、取によって有があり、有によって生まれ変わりがあり、
生まれ変わりによって老いと死と、悲しみ・嘆き・痛み・憂い・悩みが生起する。
このようにしてすべての苦蘊が生起する。
「例えば比丘たちよ、油と灯芯によって油灯が燃えているとする。
そこに男が時々油を注ぎ、灯芯を集めるとする。
すると比丘たちよ、その油灯は、それを摂取し、それを取り込んで、
ずっと、長い間燃えるだろう。
ちょうどそのように比丘たちよ、絆を美味しいと思って見ていると、愛が成長する。
愛によって取があり、取によって有があり、有によって生まれ変わりがあり、
生まれ変わりによって老いと死と、悲しみ・嘆き・痛み・憂い・悩みが生起する。
このようにしてすべての苦蘊が生起する。
「比丘たちよ、絆に危険を見ていると、愛は滅する。愛の滅尽によって取は滅する。
取の滅尽によって有は滅する。有の滅尽によって生まれ変わりは滅する。
生まれ変わりの滅尽によって老いと死と、悲しみ・嘆き・痛み・憂い・悩みは滅する。
このようにしてすべての苦蘊は滅する。
「例えば比丘たちよ、油と灯芯によって油灯が燃えているとする。
そこに男が時々油を注がず、灯芯を集めないとする。
すると比丘たちよ、その油灯は、始めの燃料が尽きて、他に摂取するものがなくなると、
摂取するものがないので消えるだろう。
ちょうどそのように比丘たちよ、
絆に危険を見ていると、愛は滅する。愛の滅尽によって取は滅する…
このようにしてすべての苦蘊は滅する」
さて「無明」から「老死」まで十二個の単語が並んだ「十二支縁起」というのを
大乗の坊さんはかなり大ごとにとらえている
「無明」(ignorance) がすべての苦の原因なのだ、などど彼らは言う
しかもどうも「空」の概念が十二支縁起と混じりあっている気がしなくもない
しかしパーリの経をすべてつぶさに読むと
実は十二支縁起が十一支しかなかったり十三支だったりして
しかもその始まりは「無明」とは限らない
仏が死んでいろんな人が諸説を唱えて最終的に十二個に落ち着いたんだなあという感想がある
上に引用した経はそのいろんな縁起の中でも一番短いやつで
「絆」→「愛」→「取」→「有」→「生」→「老死」
と六支の縁起になっている
そして変な哲学が介入していなくてとてもわかりやすい
だから俺はこれが好きだ
「愛」というのはキリスト教の charity ではない (charity を仏教では慈などと言う)
愛は渇望のことだ
また「取」は「有 (to be; 世界に存在すること)」のために人が摂取しているもののことで
喩えるならランプの火が「有」でその燃料が「取」だ
「取」はいくつかある
欲も「取」だが、「戒律・儀式」とか「魂についての理論」とかも「取」だ
つまり滑稽な戒律を守り儀式を行い
現世を耐え抜いた後の魂の救済を信じるという愚行によって
「愛」(渇望) の成就しないクソゲーな世の中を人はかろうじて生きているわけだ
そしてこういう生き方をすると「生」つまり「生まれ変わり」という考え方が必要になる
「現世はクソゲーだけれども神に仕えれば天国に生まれ変われるよ」という嘘が必要になる
そしてそんな嘘の理論で自分の人生を正当化している人には
老いと死と、悲しみ・嘆き・痛み・憂い・悩みが生起する
このようにしてすべての苦蘊が生起する
宗教によって不幸を招く愚かな世の中を見て
仏は二種類の解を示した
一つは上の経にあるように絆を捨てること
絆を捨て世を捨て働かずに乞食で楽に生きること
しかし多くの人はそんなことできない
出家しない人に向けた経の中で仏は、要約すればこんな意味のことを言っている
神に祈っても無駄だ
つべこべ言わずに勉強して働いて金を稼げ
金があれば自分も血縁者も友人も喜ばせることができる
今日の法話はこんなところかね