真相が明らかになるにつれ、殺された政治家の裏の顔が暴かれ始まったという
ことではないか。その顔は非常にあくどい宗教の顔として、あらゆる権力に入り込み、
理性を失った宗教を選挙や政治活動に利用し、莫大な人件費を宗教信者の無償の
労働力として得ていた可能性が見えて来た。莫大な献金も個人の自由、選挙活動に
無償の労働力として参加するのも個人の自由、しかし、民主主義に理性を失った
自由は存在しないのではないでしょうか。
民主主義に於いて、行うべきこと全てに理性が存在し、主権者である国民が
納得すべきこと以外、何一つとして認められず、そこには自由もなければ
平等も公平も無いのではないか。法治国家は放置国家ではない。
国家に優遇され、国家に守られた宗教を理性的に検証すると宗教は国家の
最高責任者である首相に守られる存在であり、元首相は宗教の正当性を
管理監督する立場であることに相違ないのではないか。
結局、元首相として、殺人者の恨みの対象として殺される立場であったのは
間違いないと言えるのかもしれない。主権者である国民の怒りを慰める立場の
政治家が逆に怒りを助長する行動を取っていたということだ。簡単に言えば
「身の程知らず」ということではないか。
現首相も「国葬」は「身の程知らず」と言われる前に撤回すべきではないのか。