0079番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイ 3787-C3j7)
2023/12/14(木) 02:46:47.67ID:/VsCtUv20
https://blog.goo.ne.jp/nextwill/m/201903
秀吉の命を受け、石山合戦や山崎の戦いで武功を立てた中村一氏(なかむら・かずうじ)が岸和田城主となり3万石を拝領。
当時、秀吉に服属せず、根来衆や雑賀衆、粉河衆などの紀州勢に支配されていた和泉国を傘下に、大坂城の防衛と紀州攻めに備える役割を与えられた。
天正12年(1584年)正月、紀州から根来衆や雑賀衆、粉河衆などで構成された連合軍による岸和田城への襲撃が開始。
同年3月22日からは、小牧・長久手の戦いのため秀吉が大坂を留守にした合間をぬった攻撃を受ける。
連合軍3万、中村一氏らの城兵8千と、一氏側は極めて劣勢ながらも岸和田城を守りぬいたという。
その後も秀吉との交戦は続く。天正13年(1585年)2月、秀吉は家臣である小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)に、毛利水軍を岸和田へ派遣するよう命じ、3月9日、貝塚の寺内に禁制を発行し安全を保障。
秀吉は根来寺に使者を派遣し和睦を提案するも、和睦の反対派が使者の宿舎に鉄砲を撃ちかけたことで交渉は決裂。秀吉による紀州への侵攻(紀州征伐)が始まる。
3月20日、秀吉は10万もの兵を率いて出陣し、翌21日、岸和田城に入る。
多数の軍船を揃え、海陸両方から紀州に攻め込む戦法をとり、対する根来衆や雑賀衆は9千の兵で迎え撃つこととなる。
まず、紀州側の防衛線で、根来寺の支城、現在の貝塚市橋本付近にあった「千石堀城(せんごくぼりじょう)」に攻め込む。城兵による弓と鉄砲に阻まれ、秀吉側の軍勢で1時間余りで千人の死傷者を出す攻防戦となったが、城内に射った火矢が火薬庫に引火し城は炎上。
それが起因となり、その他の支城も落城を迎える。
和泉の制圧を受け、23日、秀吉は岸和田城を出立し根来寺へ向かう。
根来寺では戦闘する者は少なく制圧。その後出火し3日間燃え続け、それは貝塚からも見えたという。
日を同じくして粉河寺も炎上。24日には秀吉が紀の川の北岸から現在の和歌山市へ進軍。
紀州側の軍勢は船での脱出を試みるなど大混乱となり、雑賀衆の残党による太田城の籠城も水攻めで落城。
紀南方面への制圧も進み、紀州征伐は終わりを迎える。