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≫ 2022年10月1日放送 4:50 - 5:20 ≫ テレビ朝日 ≫
≫ テレメンタリー2022「働いた。闘った。」より全文
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◆ テレメンタリー2022「働いた。闘った。」
96歳の貝谷アキ子さんは自分の人生を書きたいと語った。
姪の京子さん(61歳)はアキ子さんを女の生き方の見本だと語った。
闘い続けたアキ子さんの人生に迫る。
貝谷京子さんは6年前におばのアキ子さんが書いた大量の原稿を見つけた。子供がいないアキ子さんが自身の半生を綴ったもので、会社員として働いた経験が大半を占めている。
1946年に愛知県の物流会社に入社し、1976年には経理部の次長となった。当時の女性は男性の補助的な仕事しかさせてもらえず、管理職は5%未満という時代だった。
元情報誌のライターだった京子さんはアキ子さんの手記をまとめて本にしようとしている。京子さんは時々アキ子さんに会って手記に欠けている情報を補っている。
アキ子さんは末期がんを患っていて、医師からはいつ容態が急変してもおかしくないと告げられている。白内障も進行し、字も書けなくなってきたという。
アキ子さんは1926(大正15)年に名古屋市で生まれた。父親は魚の卸業者で経済的には恵まれていたという。
1943(昭和18)年に名古屋女子商業学校を卒業し、翌年に住友金属工業名古屋軽合金製造所に就職した。当時は戦争中で戦闘機のプロペラなどを作る軍需工場だった。
戦争中は戦地に赴いた男性の代わりとして女性が労働力として動員された。戦況の悪化で名古屋も空襲を受け、アキ子さんが勤めていた工場周辺が狙われた。爆撃に巻き込まれて吹っ飛んだ人が電線にぶら下がって死んでいたという。
アキ子さんは2歳年上だった初恋の人・潔さんを戦争で失い、戦後は独身を貫いた。
戦争が終わると、工場は生産を停止し、アキ子さんは解雇された。父親の収入は終戦後に激減し、小さな弟や妹のため、一宮市の物流会社に就職したアキ子さんが家計を支えた。一宮市は毛織物の産地で朝鮮戦争による特需「ガチャマン景気」に湧いていた。ガチャンと折れば、マン(万)の金になる意味だという。
男女は賃金格差が激しく、アキ子さんはこの景気の恩恵にあずかれなかったという。
アキ子さんの手記には昭和40年頃に女子社員は35歳で定年、既婚の女子社員は全員解雇と宣告されたことに対する怒りが書いてあった。当時を知る経営者は1960年代の繊維不況の影響でやむを得なかったのではないかと語った。
特例で会社に残ったアキ子さんは経営の合理化を主張し、当時は珍しかったコンピューターを導入した。
経理部次長まで昇進したアキ子さんは55歳で定年、嘱託で59歳まで勤めた。
当時を知る会社の経営者は、「今の時代なら経理担当の取締役になっていた。正論を言うアキ子さんをよく思わないおじいさんたちがいたのではないか」と推察した。
男女雇用機会均等法が制定されたのはアキ子さんが退職した1986年だった。
アキ子さんが働く気力を失いかけた時に訪れていたのが神奈川県横須賀市の観音崎公園にある慰霊碑だという。戦争で亡くなった初恋の相手を偲んでいた。
姪の京子さんは来年春の出版を目指してアキ子さんの手記を本にまとめている。
アキ子さんはこの夏ごろから急速に記憶が衰え始めた。何度も取材しているディレクターも誰だかわからなかったが、男社会と必死に闘っ