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…もしこれが、市井の一私人が、低俗な言論の暴力によつて私事をあばかれたケースであつたとしたら、プライバシーなる新しい法理念は、どんなに明確な形で人々の心にしみ入り、かつ法理論的に健全な育成を見たことであらう。
原告被告双方にとつて、この事件は、プライバシーの権利なるものを、社会的名声と私事、芸術作品の文化財的価値とその批評的側面などの、さまざまな微妙な領域の諸問題へまぎれ込ませてしまつた不幸な事件であつたといふ他はない。
本来、プライバシーなどといふ、近代社会の明快なプラクティカルな概念は、こんな微妙で複雑な文化的価値の較量の問題などをはらみやうもなく、一方で、私はまたしばしば、日本の風土や風俗習慣と、継受法的概念との、抜きがたい違和をも感じたのであつた。
(中略)しかしこのたびの和解によつて、五年間ヤミに埋もれてゐた作品が、再び日の目を見て、誠実な読者の公正な判断に委ねられる機会を得るといふことは、口につくせない喜びである。 ??三島由紀夫「『宴のあと』事件の終末」[24]
当初、この件で友人である吉田健一(父親・吉田茂が外務省時代に有田の同僚であった)に仲介を依頼したもののうまくいかず、吉田健一が有田側に立った発言をしたため、のちに両者は絶交に至る機縁になったといわれている[26][16]。
三島は、自決1週間前に行った古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」において、この裁判で裁判というものを信じなくなったと語っている[27]。それは、法廷で弁護人から「三島に署名入りで本(有田八郎著『馬鹿八と人はいう』)をやったか」と質問が出たとき、
有田が「とんでもない、三島みたいな男にだれが本なんてやるもんか…(後略)」と答え、弁護人が、「もしやっていらっしゃったら、ある程度三島の作品を認めたか、あるいは書いてもらいたいというお気持があったと考えてよろしいですね?」と念押しされ、「そのとおりですよ」と、断固として本は三島に渡していないと主張したが、三島は有田から、「三島由紀夫様、有田八郎」と署名された本をもらっていた。それを三島側が提示すると、傍聴席が驚いたという[27]。
三島は、「宴のあと」裁判が陪審制度だったら、自分は勝っていただろうと振り返って述べている[27]。
裁判所の判断は、有田が老体であるとか、社会的地位や名声を配慮して有田に有利に傾き、民事裁判にもかかわらず刑事訴訟のように、被告は「三島」と呼び捨てにし、ときどき気がついて「さん」付けになるものの、ほぼ呼び捨てだったという[27]。
■「この物語はフィクションです」の始まり
「フィクションである」という掲示の初出は、『宴のあと』連載最終回で「実在の人物とまぎらわしい面があり、ご迷惑をかけたむきもあるようですが、作品中の登場人物の行動、性格などは、すべてフィクションで、
実在の人物とは何ら関係ありません」という“断り書き”を『中央公論』に掲載したものと思われる。
毎日放送の番組審議室によると、「この物語はフィクションです」というテロップは『宴のあと』裁判でプライバシーに関する論議が盛んになり、ドラマの最初もしくは最後に放送するようになったという[28]。
テレビテロップは特撮ドラマ『超人バロム・1』の「このドラマにでてくるドルゲはかくうのものでじっさいのひととはかんけいありません」(通称ドルゲ事件)が日本における初出とも言われるが、
2009年に1964年(昭和39年)の白黒ドラマ『第7の男』のフィルムが発見され、「こゝに登場する物語 場所 並びに人物はすべて創