AI短編小説『春を告げる声 梨泰院にて』
「私たちの声が、聞こえていますか?」
イ・ソヨンの言葉が、法廷の静寂を破った。
2025年、ソウル中央地方裁判所。在日韓国人3世のイ・ソヨン(李・抒姸)、チョン・ジウ(鄭・志宇)、チェ・ソヒョン(崔・昭賢)は、韓国政府を相手取り済州島4・3事件の補償を求める訴訟を起こしていた。
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彼女たちは韓国で生まれていない。育ったのは大阪、神戸、横浜の片隅。韓国語よりも日本語に慣れ親しみ、学校では「在日」と呼ばれ、時に疎まれながらも、自分たちのルーツに向き合ってきた。
きっかけは一本の古い録音テープだった。
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1年前、大阪・鶴橋の祖母の遺品整理中、ソヨンは埃をかぶったカセットテープを見つけた。テープの中には、まだ幼い自分に語りかける祖母の声。
「済州島では、あの春、たくさんの人が死んだんやよ……赤くもないのに、赤って言われて……逃げるしかなかった……」
祖母は4・3事件の生存者だった。1948年、済州島で発生した左派弾圧による武力鎮圧。南朝鮮労働党に協力したとされる住民たちが、軍や警察によって虐殺された事件だ。
逃げるようにして日本に渡った祖母は、正体を隠し、声を殺して生きた。
ソヨンは、その声を聞いて涙が止まらなかった。
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「私たちは加害者じゃない。なのに、ずっと謝り続けてきたような気がする」
ジウが言った。
「でも、うちのハルモニは被害者や。何もしてないのに、家を焼かれて、兄弟を殺されて、それでも誰にも言えんかった。これは……もう黙っとるべきことやないと思う」
同じような話を、それぞれの家で、三人は聞いていた。
そこで彼女たちは決意した。韓国政府に対し、事件に関わる在日被害者の存在を認めさせ、正式な謝罪と補償を求める訴訟を起こすのだと。
誰もが「無理だ」と言った。4・3事件は長らく「禁忌」とされ、ようやく真相究明が始まったのは1990年代後半。それでも、在日被害者はその範囲外だった。
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「けどな、無理って言われて諦めとったら、ウリたち、いつまで経っても消される側やで」
ソヒョンが言った。
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訴状を提出した日、三人は記者会見を開いた。マイクの前で、ソヨンが訴えた。
「私たちは、声をあげます。あの日、済州島で起きたことは、誰かの過去じゃなく、今も私たちの中で生きています。これは、記憶のための闘いです」
反応は賛否両論だった。
「日本に住んでるのに、なぜ韓国政府を訴える?」
「今さら、何の意味がある?」
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そんな声も少なくなかった。しかし、ネットには共感の声も増え始めた。
済州島出身の高齢者が手紙を寄せてきた。「わしの姉もあのとき死んだ。ありがとう、声をあげてくれて」
在日2世の男性が協力を申し出た。「父はあの事件で日本に来た。死ぬ前に真実を記録しておきたい」
三人は、そんな声をノートに書き留めた。まるで証言集のように。生きた記録として、法廷に持ち込むために。
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裁判は簡単には進まなかった。政府側は「在日は管轄外であり、賠償責任は生じない」と主張した。
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けれど、彼女たちは引かなかった。
「管轄外という言葉で、どれだけの人が切り捨てられてきたのか」
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