〓女王ヴィクトリアや女王エリザベス2世の治世に売春婦が相次いで惨殺される『切り裂きジャック事件(1888年)』や『剥ぎ取りジャック事件(1964年~1965年)』が起こり、二人の女王が殺人鬼の正体(間接正犯ないし共同正犯)ではないかと強く疑われている。
>『内モンゴル人民革命党粛清事件(1966年に鄧小平が指揮)』Wikipedia
>内モンゴル人民革命党粛清事件(うちモンゴルじんみんかくめいとうしゅくせいじけん)は、1966年から1976年にかけて (文化大革命)、モンゴル人数十万人が中国共産党によって粛清された事件[1]。
>1966年に開始された文化大革命で内モンゴルへの中央からの介入がより強化され、7月12日、鄧小平は内モンゴル自治区主席であったウランフを呼び出し[3]、「内外モンゴル統一を企む民族分裂主義者」「現代の王公となって独立王国を築こうとしている」などと攻撃して失脚させた。内モンゴルでは『内人党分子』とされたモンゴル人が弾圧された。
>南モンゴル(内モンゴル自治区)出身の楊海英によると、漢人たちはモンゴル人に対し、真っ赤に焼いた鉄棒を肛門に入れる、鉄釘を頭に打ち込む、モンゴル人女性のズボンを脱がせて、縄でその陰部をノコギリのように繰り返し引く、妊娠中の女性の胎内に手を入れて、その胎児を子宮から引っ張り出すなどの凄惨な性的暴行・拷問・殺戮を加えた[2]。内モンゴルのジャーナリストや研究者たちによると、当時内モンゴルに居住していた150万人弱のモンゴル人のうち、犠牲者は30万人に達し、その後、内モンゴルではモンゴル人の人口250万人に対して、漢人の入植者は3,000万人に激増した[2]。楊海英は、事件をきっかけに「19世紀以降に満洲、モンゴル、新疆へと、彼ら漢人(支那人)が領土拡張してきた方法」により、内モンゴルは植民地開拓され、「内モンゴル自治区ではモンゴル人の人口がたったの250万人にとどまり、あとから入植してきた支那人はいつの間にか3,000万人にも膨れあがり、その地位が完全に逆転してしまいました。支那人による植民地開拓のプロセスは何処でも基本的に同じ人海戦術です」と述べている[2]。
>アルタンデレヘイ(支那語: 阿拉騰徳力海)は、「中国共産党はまず、ウランフの例でわかるようにモンゴル人の指導者と知識人たちを狙った。『文字を読める人』は殆ど生き残れなかったと言われるほどの粛清が行われた。50種類以上の拷問が考案され、実行された。たとえば、真赤に焼いた棍棒で内臓が見えるまで腹部を焼き、穴をあける。牛皮の鞭に鉄線をつけて殴る。傷口に塩を塗り込み、熱湯をかける。太い鉄線を頭部に巻いて、頭部が破裂するまでペンチで締め上げる。真赤に焼いた鉄のショベルを、縛りあげた人の頭部に押しつけ焼き殺す。『実録』には悪夢にうなされそうな具体例が詰まっている。女性や子どもへの拷問、殺戮の事例も限りがない。中国共産党の所業はまさに悪魔の仕業である」と批判している[7]。
〓文化大革命(1966年~1976年)の最中、内モンゴル人民革命党粛清を指揮した狂人ヒットラーに劣らず悪逆非道な鄧小平に対し、マーガレット・サッチャーは住民投票を一度も実施せずに香港を献上して媚を売り、数百万人の香港市民を地獄に突き落とした(1984年)。