テレビもさておき、新聞も芸能人を擁護する姿勢を崩さないが、一般の人が擁護している意見を
見ると、人の知識や教育が如何に浅いのか驚いてしまう。擁護する芸能人は被害者であり、未だに
その被害から抜けることが出来ないでいると考えるべきで、芸能界の華やかな舞台の裏で続けられた
性被害が一般人が擁護する芸能人の体を蝕んでいたと考えるべきだ。楽しく素晴らしければ一般人は
嬉しく幸せなのだろうが、応援する芸能人が性の奴隷に成っていたと言う事実に背を向けては余りにも
芸能人が辛く切ないのではないのか。
犯罪や事件が起きたとき、被害者はどのようにあるべきか。今回の幼い少年たちが遭遇した性加害者
の評価は未だに高く評価しているから事務所名を性加害者の名前を使っていると思うが、このことは
この芸能事務所とここに所属する芸能人の性被害に対する認識の甘さ、不安に思うのはここの芸能人は
性加害者の社長の性被害に恐怖を抱いていたのかそれとも喜びでは無かったのかと言うことだ。
想像域を超えることは出来ないが、今回の新社長は性被害を知っていたような感じだった。普通に
考えればそんな性被害を知っていたら、そんな事務所にいないのではないかと思うが、多くの少年たちは
その性行為を受け入れ事務所に残ってしまった。これをどのように判断するか、社長の性交は犯罪
なのか、それとも少年たちに取って仕事なのか。恐怖なのか喜びなのか。正に芸能界に潜む悪魔の
いたずらと考えている国民が沢山いると言うことなのではないか。これこそが古い文化であり、近代
国家とは程遠い国民の性犯罪に対する悪口ではないのか。
映画や小説で布団に入り込む人を何度か見たがその人たちは布団の中で楽しそうにじゃれ合っていた。
その人たちは布団の中で何をしていたのだろう。多分、楽しそうだったので恐怖ではなく喜びだったので
はないだろうか。
性被害で苦しむ芸能人が莫大な利益と人気を得て、大企業の広告塔として使われ、芸能人も
莫大な利益を得ているのだろうが、その裏で性被害を受けていたとすれば、擁護するのではなく、
その地獄から救い出すのが平和国家の国民としての役割ではないのか。