実際、聖徳太子は、真言なしで三経義疏を著したとされるが、法華の攻撃的なノリそのままに、崇仏の蘇我氏と組んで排仏の物部氏を滅ぼしたら、因果応報で、自分の子供の山背大兄王が蘇我氏に滅ぼされた
因果応報で、蘇我氏は大化の改新で天智天皇に滅ぼされる
因果応報で、天智天皇の息子の大友皇子は、天智の弟の天武天皇に滅ぼされる
因果応報で、天武の孫の長屋王が藤原四子に滅ぼされたら、因果応報で藤原四子が天然痘で死に、天武朝の平城京は政局の混乱の果て、百年も持たず、天武の血筋を排除する形で、天智系の皇統に戻り、都も平安京に遷る