是非という二値で問うと、このように「どちらにでも傾く」。
この自然の法則を知った上で、その性質を隠れ蓑に、「自分の姿勢や立場を粉飾隠蔽する人」というのはいると思う。
trollと認定される種類の人間がいる。それらは荒らす環境のほうに目的を持っておらず、「『何らかの法則に則って纏まりを持っている場』をとっちらかす」行為によって自己の欲求を満たす人達だ。
しかし、trollとはいえ、筋金入りのtrollでない限り、その行動原理もそこまで綺麗にシンプルに他者によって描写されるものにはなっていない。
様々な箇所で公私が混濁し、目的も動機も色々混ざった状態で(外界でその時その場で取りうることのできる)たったひとつの行動を足跡として残す。
この分析で明らかになる部分は、「組織などで統制がとられた役割をこなす歯車のひとつとしての存在」であるか、「個人」であるか、くらいだ。
ここまでで、俺が言っていることを纏めると、
個人で、且つ、目的と取っている行動がよくわからない人物について白黒付けるのは、客観的に手に入る情報だけでは判断付けにくい、ということだろう。
つまり「灰色」として存在していることになる。
「白黒」付ける場面に「灰色」が混じると、白黒つける動作は完了しない;灰色によってどっちつかずな色合いに染められてしまう。
この灰色がコウモリというどっちつかずの人間の意味合いも持っている。
「灰色という個人」について、は、「サンデルの正義」くらいの重量で、時間をかけて議論されて、その処遇と在り方と他者としての関わり方をより具体的にしていくべきだと思う。
この問題は、これからもずっとついて回る。