「ストップ!! ひばりくん!」について語る #128

128名無しさん@Next2ch:2024/06/21(金) 21:12:02.37 ID:hhNRau+J

、、倭建命は、伊勢の神剣である草那藝剣を美夜受比売に預けたまま、伊吹山(岐阜・滋賀県境)の神を素手で討ち取ろうとして出立する、、というのだが、、。

、、もう、、済んだので日本を去ることにしていたらしいのだ、、。、、次の話に進めるというのだ、、。、、草薙の剣を持っていたら違うことになるので返しておいたほうが良いというのだ、、。、、サウロンが行方をくらましたときに剣はどうなった、、?、、と騒がれてはまずいのだ、、。、、これは返しておいたほうがよいだろう、、というのだ、、。

、、そして、、自作自演で雹を浴びて見せたりしたらしいのだ、、。、、そして、、もはや他界するから僕に墓を作るように命じたに違いないのだ、、。、、~の場所に墓を作ってくれ、、後で追ってそっちに行くから、、後でそっちに死体が届くから、、と言って能褒野へと行かせたものと思われる、、。

、、そして、、日本武尊は一休みした後、、最後に、、その周りにいた人たちに言い残してどこかへと去っていった、、と思われるのだ、、。、、『日本武尊なんてそんな有り得ないものは存在しないよ』、、と、、。
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、、そして、、その後で、、周辺の村人の何者かと普通に日本武尊が話している様子を見た人もいたが、、訳が分からず普通に気にもされずにどこかへと姿をくらませて過ぎていった、、と考えられるというのだ、、。

古事記
倭建命の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后たちや御子たちであった。彼らは陵墓を築いて周囲を這い回り、「なづきの田の 稲がらに 稲がらに 葡(は)ひ廻(もとほ)ろふ 野老蔓(ところづら)」“お墓のそばの田の稲のもみの上で、ところづら(蔓草)のように這い回って、悲しんでいます”との歌を詠んだ。
すると倭建命は八尋白智鳥となって飛んでゆくので、后や御子たちは竹の切り株で足が傷つき痛めても、その痛さも忘れて泣きながら、その後を追った。その時には、「浅小竹原(あさじのはら) 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな」 “小さい竹の生えた中を進むのは、竹が腰にまとわりついて進みにくい。ああ、私たちは、あなたのように空を飛んで行くことができず、足で歩くしかないのですから”と詠んだ。
また、白鳥を追って海に入った時には 「海が行けば 腰なづむ 大河原の 植え草 海がは いさよふ」“海に入って進むのは、海の水が腰にまとわりついて進みにくい。まるで、大きな河に生い茂っている水草のように、海ではゆらゆら足を取られます”と詠んだ。
白鳥が磯伝いに飛び立った時は 「浜つ千鳥(ちどり) 浜よは行かず 磯づたふ」“浜千鳥のように、あなたの魂は私たちが追いかけやすい浜辺を飛んで行かず、磯づたいに飛んで行かれるのですね”と詠んだ。
これら4つの歌は「大御葬歌」(天皇の葬儀に歌われる歌[11])となった。
日本書紀
父天皇は寝食も進まず、百官に命じて日本武尊を能褒野陵に葬るが、日本武尊は白鳥[12]となって、大和を指して飛んだ。棺には衣だけが空しく残され、屍骨(みかばね)はなかったという。
古事記
白鳥は伊勢を出て、河内の国志幾に留まり、そこにも陵を造るが、やがて天に翔り、行ってしまう。
日本書紀
白鳥の飛行ルートが能褒野→大和琴弾原(奈良県御所市)→河内古市(大阪府羽曳野市)とされ、その3箇所に陵墓を作ったとする。こうして白鳥は天に昇った。その後天皇は、武部(健部・建部)を日本武尊の御名代とした。
『古事記』と異なり、大和に飛来す


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