めずらしく3日間便意を催さなかった俺は焦燥感の中ビオフェルミンを噛み締めていた
なにせ、いつもなら一日2回催してもおかしくない体質の俺が3日間催さなかったのである
この破滅が決定的となったカタストロフィを回避すべく、俺はなけなしの知恵を絞り策を練っていた
突如冷物で腹という腹を満たせという気が、心頭をかすめ、一閃した
俺は確かにそのような聲を聞いたのである
次の瞬間、俺は目の前に無言で佇むコンビニエンスストアでありたけの冷物を買い、口に詰め込んでいた
……
…
追い詰められた人間は本能的に精神の拠り所だった所に帰ろうとするらしい
俺の場合は日比谷線だった
東大に落ちた俺はかろうじて後期日程で滑り込んだ神戸大学で自身の不甲斐なさを悔いながら悶々とした大学生活を送らざるをえなかった
だが学力の問題ならばいざしらず、センター試験でさえ手が震え吐き気を催しているほど精神の弱い俺が1年浪人したとて東大に受かるわけがないことは俺身が一番良くわかっていた
東大ないし医学部が当然とされた一族の中で、俺は家族や親族から蔑まれ、疎まれ、落ちこぼれと罵られた(本当にそうだろうか?※今思えばこの頃から統合失調症の兆しはあった)
俺の居場所はもはやそこにはなかった
どこからともなく無能だクズだろくでなしだという声が聞こえてきたことは今でも鮮明に蘇る(やはりこれは統合失調症の影響だったのではないかと今になって思う)
確かにその時俺は死にたかったのかもしれない
しかし大抵の場合、「死にたい」とは「別の環境に行きたい」と同義だとされる
俺もそうだった
死にたいのではなく、俺は落ちこぼれらしく逃げたかったのだ
俺が目指したのは、遠い異国の関西
北野の町並みに惚れ込んだ神戸の地だった
逃げることにおいてのみ聡明な俺は、東大に落ちることを予見し、関西への逃亡ルートを無意識に確保していたのだろう
そのような俺が唯一後悔したのは日比谷線に乗れなくなったことである
俺は日比谷線と一つになっていたのだから
思えばはじめての射精、すなわち精通は日比谷線内で経験した
人気の少なくなった日比谷線のソファーの隅で、匂いが、窓の並びが、モーターの振動が、走る音が、車内放送が、雰囲気が、俺を駆り立て、憧れをそそり、俺を支配した
ズボンの中ではじめて経験する白い“ぬめりけ”にただ驚嘆するとともに言い難い脱力感を覚えたあの日から俺は日比谷線に焦がれていた
俺を疎み蔑む家族や親族から(確かに罵りはあったが、被害妄想がそれをより悪化させたのではないかと今振り返ると思う)俺を護りたもうた日比谷線は、俺の愛着を形成し、俺の自我の同一性を確立し、俺のメシアとなりたもうた
失ってはじめて母なる日比谷線の存在に気づくことができた点にのみ、俺の大学生活は価値があったと感じるのである
大学を卒業し、俺が何も考えずに選んだ国家公務員の多忙さは、かねてよりの気分障害および全般性不安障害の症状を悪化をさせた
追い打ちをかけるように発病した(後になって思うのは、悪化した結果『発覚した』という方が正しいかもしれない)統合失調症を機に医療保護入院となった俺は職を1年4ヶ月で辞め、南千住で障害年金をもらいながら交通量調査や翻訳をして食いつなぐ生活を余儀なくされた
いつしか、ただ日比谷線に何も考えずに乗ることのみが俺を死の淵から引き上げ、生を繋ぎ止める唯一の楽しみとなっていた
……
…
胃に詰められるだけの冷物を喰らい終えた俺は日比谷線に乗った
乗ったという