〓江戸時代の日本ではヘボ裁判が横行した。
>『荻生徂徠』Wikipedia
>、『政談』のうち「四十七士論」[10](宝永2年)では、「内匠頭の刃傷は匹夫の勇による『不義』の行為であり、討ち入りは主君の『邪志』を継いだもので義とは言えず」と論じている[11]。
徂徠の弟子・太宰春台が、「徂徠以外に『浪士は義士にあらず』という論を唱える者がなく、世間は深く考えずに忠臣と讃えている」と述べている点から徂徠の真筆であると思われる[12]。
浅野家赤穂藩があった兵庫県赤穂市は、『徂徠擬律書』について、幕府に残らず細川家にのみ残っていること、徂徠の「四十七士論」(下記)と徂徠の発想・主張に余りに違いがありすぎることから、後世の偽書であるとの考察をしている[9]。
〓史実に照らせば肥後細川藩は討ち入り事件以前から赤穂浅野藩と昵懇の間柄であり、赤穂浅野藩の後見役的存在であった。
〓肥後細川藩が敢えて赤穂浪士を貶めるような文書を残す動機は見当たらない。
>『ふるさと寺子屋くまもっと』
>「赤穂浪士と肥後」
https://kumamoto.guide/look/terakoya/042.html
>細川藩は赤穂浪士を手厚くもてなした
>十二月十四日の仇討ちの後、幕府は赤穂浪士を、細川家、松平家、毛利家、水野家の四家に預けます。細川家では藩主の綱利公が自ら引き取りに行きたいとのことでしたが、結局、旅家老の三宅藤兵衛が八七五人もの家来を連れて、大石内蔵助以下十七名を引き取りに行きます。一行を駕籠に乗せて、柴白金の細川藩邸に帰ると、綱利は早速、一同に対面しました。
>藩邸では上の間、次の間に分けて起居し、その待遇は二汁五菜、酒、菓子まで出され、衣服、風呂まで行き届いたものでした。義士たちは浪人生活の間、粗食だったため、料理を減らしてくれるように頼んだという話も残っています。
>毛利藩では駕籠に網をかぶせで護送した後、窓を閉めて長屋に押し込むなど、まるで罪人扱いでした。毛利藩では、細川藩での待遇を聞いて、処遇を改めました。
>赤穂浪士について、幕府の評定所から、お預けのままで置き、後年に裁決すべきだとの意見が出されました。しかし、翌年、幕府から公儀を恐れざる行為として、切腹の沙汰がおります。荻生徂徠も「ちやほやされると、間違いを起こす者が現れる」と、切腹を支持します。
>二月四日、それぞれの邸で切腹。細川家では、座敷で切腹させたかったものの、主君の浅野内匠頭が庭で切腹したため、庭先に畳を二枚敷いて切腹を執り行いました。
〓史実に照らせば肥後細川藩は討ち入り事件以前から赤穂浅野藩と昵懇の間柄であり、赤穂浅野藩の後見役的存在であった。
〓肥後細川藩が敢えて赤穂浪士を貶めるような文書を残す動機は見当たらない。
〓ところで、吉良上野介は浅野内匠頭に一方的に斬り付けられた被害者であり、殿中であることも考慮して浅野内匠頭に対して全く反撃もしなかった。
〓浅野内匠頭に有罪判決を下し切腹を命じたのは徳川綱吉であるから、主君の仇と言うならば徳川綱吉である筈というのが幕府の法律顧問であった荻生徂徠の見解だった。
〓要するに幕府の法律顧問であった荻生徂徠は「浅野内匠頭の刃傷は匹夫の勇による『不義』の行為であり、討ち入りは主君の『邪志』を継いだもので義とは言えず」と論じたのである。