〓クレージー京大生が立ち上げた赤軍派(復習):
>明治大学や中央大学学生グループの『関東派』(「連合ブント」)によって1969年8月に第2次ブント(『共産主義者同盟』)から除名された塩見孝也(クレージー京大中退)の「関西派」は強硬な武闘派路線に固執していた。
>1969年8月に第2次ブント(『共産主義者同盟』)から除名された雪辱を果たすべく、強硬な武闘派路線を掲げた塩見孝也(クレージー京大中退)の「関西派」は、1969年9月に関東学院大学金沢キャンパス内に集結し、『共産主義者同盟 赤軍派』を旗揚げした。
>強硬な武闘派路線を掲げ1969年9月に関東学院大学金沢キャンパス内で旗揚げした塩見孝也の『共産主義者同盟 赤軍派』(旧第2次ブント関西派)は、翌1970年に「よど号ハイジャック事件」を引き起こし左朝鮮に逃亡。
>日本に残った『赤軍派』メンバーは、同じ武闘派路線を突き進む『日本共産党(革命左派)神奈川県委員会』(「京浜安保共闘革命左派」)と合同して1971年に『連合赤軍』を立ち上げ、1972年に「あさま山荘事件」を引き起こした。
>「よど号ハイジャック事件」の後 海外に逃亡した『赤軍派』の一派はマルクス・レーニン主義のPFLPの手先となって『日本赤軍』を名乗り、1972年5月テルアビブ近郊のロッド空港(イスラエル)において手榴弾と自動小銃を使った無差別テロを引き起こした。