日本の刑法に『誹謗中傷罪』は存在しない #16

16横浜地判は偏向しており不当:2023/10/12(木) 20:43:10.35 ID:???

>『甲申事変』

>1884年に李氏朝鮮で起こった金玉均ら日本と結んだ急進開化派(独立党)のクーデター。



>世界史の窓『甲申事変』
https://www.y-history.net/appendix/wh1303-136.html

>福沢諭吉は1880年に朝鮮の金玉均・朴泳孝らが日本に派遣した開化派と会って以来、その運動に協力し、朝鮮人青年を留学生として慶応義塾にうけいれた。1883年には金玉均の世話で44人の青年が慶応義塾に学び、その後陸軍戸山学校に入学しているが、彼らは甲申政変で行動隊として参加し、その後の朝鮮の開化運動の指導者となっていった。また福沢諭吉は、留学生が朝鮮に帰ってから近代的新聞『朝鮮旬報』を刊行することに協力している。このように福沢諭吉は朝鮮の開化派の運動の理解者、協力者であった。



@@@李氏朝鮮の近代化を進めようとした(近代日本を代表する啓蒙思想家である)福沢諭吉翁が金玉均を支援して1884年に甲申事変(クーデター)を起こしたが、清朝(袁世凱)の軍事介入によって挫折した。
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@@@(近代日本を代表する啓蒙思想家である)福沢諭吉翁に師事して真摯に朝鮮近代化を進めようとした金玉均は日本に亡命したが、後に暗殺され凌遅刑に処された。
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>『金玉均』Wikipedia

>1894年3月28日に上海の東和洋行ホテルで朝鮮末期の高官の洪鐘宇[5]に回転式拳銃で射殺された。

>凌遅刑の後、晒し首にされた金玉均。金玉均の死体は大清帝国政府により、軍艦咸靖号で本国大朝鮮国に運ばれて死後に死刑宣告され、凌遅刑に処されたうえで四肢を八つ裂きにされ、胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山、片手及び片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道で晒された[注釈 2]。

* 凌遅刑(りょうちけい)とは、清の時代までの支那や李氏朝鮮の時代までの朝鮮半島で処された処刑の方法のひとつ。生きている人間の肉体を少しずつ切り落とし、長時間にわたり激しい苦痛を与えながら死に至らしめる処刑方法で、支那史上最も残酷な刑罰とも評されている。


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