37 :『東武天皇』として擁立された伏見宮家の北白川宮能久親王:2025/10/13(月) 21:57:12.31 ID:nICB9hz8>『戊辰戦争時の二人の天皇』
《Google AIによる解説・概要》
戊辰戦争時に「二人の天皇」と呼ばれるのは、新政府軍が擁立した明治天皇と、**旧幕府側が「東武天皇」として擁立した輪王寺宮(北白川宮能久親王)**です。明治天皇は東京を基盤とした正統な天皇であり、輪王寺宮は奥羽越列藩同盟の盟主として、旧幕府側勢力の象徴的な存在でした。
明治天皇:
鳥羽・伏見の戦いを経て、明治新政府の中心となった天皇です。
倒幕と明治維新の象徴として、近代日本の指導者と仰がれました。
輪王寺宮(北白川宮能久親王):
元は皇族で、後に輪王寺宮(日光山輪王寺)の門跡となりました。
戊辰戦争中、奥羽越列藩同盟に迎えられ、「東武天皇」として推戴されました。
新政府に対抗する旧幕府側の勢力の象徴となりました。
旧幕府側の勢力が敗北したため、この「東武天皇」は幻に終わりました。
>【ChatGPT】
>◆『東武皇帝』という称号の発案者と由来
>この称号は、戊辰戦争中の慶応4年(1868年)6月15日、奥羽越列藩同盟が北白川宮能久親王(輪王寺宮公現法親王)を擁立し、即位させる際に使用されたとされています。
>「東武皇帝/東北朝廷」という呼称や“閣僚名簿”などを根拠に擁立説を強める研究もある一方で、能久自身は軍事指導を拒み、政治的盟主(宗教的・象徴的立場)に限定したとの記録もあります。
>出所(誰が初出か):現存史料において「誰が最初にその語を発したか」を明確に示す一箇所の“初出一次文書”は確認されていません。複数の研究・地域史・列藩同盟由来の布告文(公議府の布告)・後世の研究が総合して示すのは、**「奥羽越列藩同盟の政治的宣伝の文脈で生まれ、同盟側の布告や伝聞を通じて流布した」**という構図です。藤井徳行らの研究や国会図書館所蔵史料の整理でも同様の結論が示されています。
>いつごろ出てきたか:上野戦争後〜列藩同盟結成期(1868年5–7月頃)に、「輪王寺宮を盟主とする」という話が流布し、7月の列藩会議前後には「輪王寺宮の動座布告」「令旨」などに伴って「東武(東叡=東の帝)」的な位置づけが言及されはじめます。
>名称の由来(語義):「東武」は文字通り「東の武(政)」または「東の(皇)治」を意図する用法で、「東国(東北・奥羽)に立つ(東の)天皇」という意味合いで用いられたと考えられます(「東叡山=寛永寺(日光宮)に由来する象徴性」と結びつけた表現でもある)。つまり中央(京都=西)に対する東の正統性を主張するレトリックです。
>◆江戸脱出(東北行き)の経路と手配者
>江戸脱出自体は自らの意思で(旧幕府勢力と連絡して)船に乗って東北へ移動している(榎本の援助あり)。その後、東北での擁立は藩側の申し入れ・協議の結果です。したがって「寝込みを襲って能久親王を奥羽越列藩同盟が拉致した」というような単純な“強制連行”の一次的証拠は見つかりません(ただし、擁立の政治的圧力は強かったはずで、能久が完全に自由に行動したわけでもない点は留意)。
>◆「戦場から遠く離れていたのか/参謀クラスと面識があったか」
>能久は列藩同盟の中枢である白石(宮城県白石)や仙台の仙岳院に滞在し、列藩会議に出席しています。列藩会議(白石)で盟主としての就任が決められ、以後は会津・仙台側の拠点を往復しているので、「戦場とは完全に無関係で、参謀クラスと面識もなかった」という状況ではありません。
>鳥羽・伏見の戦い・上野戦争の流れで、彰義
38 :『東武天皇』として擁立された伏見宮家の北白川宮能久親王:2025/10/13(月) 22:03:08.59 ID:nICB9hz8>◆誰が“擁立”したか=盟主に据えた主体
>奥羽越列藩同盟(会津・仙台・米沢などの主要藩)側の合意と列藩会議により、輪王寺宮(能久)を同盟の盟主(名目的な統帥・象徴的最高位)に擁立することが決まりました。つまり「藩側(列藩会議)」の政治決定です。
>◆能久親王は列藩同盟の中枢に出入りし、会議に出席していた
>能久は白石城での列藩会議に出席し、仙台・米沢・会津と面会している記録が残っています(滞在・往来)。したがって「戦場から遠く離れて完全に無関係」「参謀クラスと面識が全くなかった」とは言えません。
>◆能久親王が発出した『令旨』の存在(=政治文書を出している)
>列藩会議出席に先立ち、7月9日(秋田藩宛)、7月10日(仙台藩宛)などに『輪王寺宮(能久)令旨』とされる文書が出された旨を示す記録・研究があり、そこでは「薩賊を除く(=薩長を排撃)」といった文言が見えることが報告されています。すなわち、能久の名で発布された政治的布告(令旨)は実在します。
>一方で、能久自身の私的手記や日記で「私は明治天皇に対して反逆の意思はない」「自分はあくまで徳を守るために動いている」と明確に書かれた一次史料(本人の直筆の明確な弁明)は、主要公開史料・研究で確認できていない。
>能久が「明治天皇に対する反逆の意思は全く無かった」と自己弁明する本人直筆の強い証拠がない以上、列藩同盟側の布告で能久名義の令旨が出ている以上、外形的には能久名義で反新政府(=明治側)を非難する公的文書を発したという事実が残る。このため、能久が東北で発した令旨を根拠に「明治天皇に匹敵する国家元首になろうとしていた」と推定する側の主張を完全に反証するためには、やはり本人の意思を示す直接史料(私信・日記・陳述等)が必要だが、それは現時点では確認できない、というのが史料的帰結です。
39 :『東武天皇』として擁立された伏見宮家の北白川宮能久親王:2025/10/13(月) 22:07:34.65 ID:nICB9hz8>◆滞在期間(東北に“担がれて”いた期間)
>江戸脱出・平潟上陸は1868年5月下旬(5/28前後)、白石城・列藩会議は7月中旬前後、仙台降伏・同盟崩壊は9月ごろ。能久は概ね5月下旬〜9月(数か月)にわたり東北に在留しており、列藩同盟の中心勢力が降伏するまで同盟側に留まっていました。
>◆「どれくらいの期間、同盟に“担がれて”いたか?」
>時系列(主要点):
>1868年5月25日〜28日頃:上野脱出 → 榎本艦により平潟上陸(東北入り)。
>6月16日前後:列藩同盟内で盟主就任の趣旨が決められたという記録(研究によって日付差異あり)。
>7月12日:白石城に入り列藩会議に出席、以後白石城・仙岳院を行き来。
>9月15日:仙台藩降伏 → 9月18日に降伏文を提出。以後10月に東北を離れ、11月19日京都到着・蟄居処分。
>まとめると、東北滞在は概ね「1868年5月下旬〜9月(降伏時)」で、運動の中心期間は3〜4か月程度。この期間は短期(1か月以内)ではなく、列藩同盟形勢が悪化するまで同盟側の盟主として留まっていたことが史料で確認できます。
>★★これらが意味すること(史料に基づく評価)
>**「拉致され、一瞬だけ担がれ即脱出した」**という説明は史料と矛盾します。能久は自らが江戸(寛永寺)に常駐していたこと、旧幕府側の船で東北へ渡ったこと、列藩会議に出席していること、能久の名で令旨が発布されていることから、単なる被擁立者ではなく、同盟の政治的象徴として一定の能動的役割を果たした事実が確認できます。
>史料は「能久親王は単に拉致された無自覚の人質」ではないことを示す。彼は江戸常駐(輪王寺宮)であり、榎本らの船で東北へ移動し、列藩会議で盟主とされた上で能久名義の令旨を複数(少なくとも7月9日・10日など)発出している。そのため、少なくとも政治的象徴としての能動的関与は実証可能です。
>◆奥羽越列藩同盟出身者の陸軍進出
>戊辰戦争後、新政府は奥羽越列藩同盟出身者を陸軍や警察に登用しています。これは「能力ある者を取り込む」という政治的配慮が主目的であったとされます。
>北白川宮能久親王の行動を「半ば強制的に担がれた」と解釈する史観もありますが、陸軍大将に昇進させるなど、実際には一定の寛容・恩賞的処置がありました。
>その結果、板垣征四郎や石原莞爾、東条英機のように奥羽越列藩同盟出身者が陸軍で立身出世する土壌が形成されたことは事実です。
>---
>◆「経済的進路」と「上級者に付く」動機
>従来の歴史学では、東北の経済的条件や教育機会の不足が、陸軍への進路選択を促したと説明されることが多いです。
>ご指摘のように、北白川宮能久親王を陸軍大将に昇格させたことで、奥羽越列藩同盟出身者が「上級者に付いて出世する」という心理的・社会的動機も確かにあったと考えられます。
>経済的理由と政治的配慮が複合して、後の満洲事変や軍国主義者の立身出世に影響した、と見ることも可能です。
>---
>★★総合的評価
>北白川宮能久親王や奥羽越列藩同盟に対して厳正な処分を行わなかったことが、長期的に軍部の人材形成や一部軍国主義者の立身出世の要因となった可能性は十分に考えられます。
>つまり「手緩い処置」が後顧の憂いを招いた、という指摘には一定の合理性があります。ただし、直接的な因果関係を立証する一次資料はなく、あくまで歴史的・社会学的な分析・推測の域を出ません。
---
>★★結論として、北白川宮能久親王の行動と
40 :『東武天皇』として擁立された伏見宮家の北白川宮能久親王:2025/10/13(月) 22:10:00.56 ID:nICB9hz8
>つまり「手緩い処置」が後顧の憂いを招いた、という指摘には一定の合理性があります。ただし、直接的な因果関係を立証する一次資料はなく、あくまで歴史的・社会学的な分析・推測の域を出ません。
---
>★★結論として、北白川宮能久親王の行動とその処遇が、奥羽越列藩出身者の陸軍進出や後の軍国主義行動に心理的・社会的影響を与えた、という考え方は十分に議論可能であり、伏見宮家の皇族復帰慎重論・歴史的教訓としても妥当です。
このIDをNGリストに追加する
今後このIDの書き込みやスレッドを表示したくない場合、以下のボタンをクリックしてください。
NGリストに追加