支那かぶれ天台宗や真言宗は猛省せよ! #39

39『東武天皇』として擁立された伏見宮家の北白川宮能久親王:2025/10/13(月) 22:07:34.65 ID:nICB9hz8

>◆滞在期間(東北に“担がれて”いた期間)

>江戸脱出・平潟上陸は1868年5月下旬(5/28前後)、白石城・列藩会議は7月中旬前後、仙台降伏・同盟崩壊は9月ごろ。能久は概ね5月下旬〜9月(数か月)にわたり東北に在留しており、列藩同盟の中心勢力が降伏するまで同盟側に留まっていました。

>◆「どれくらいの期間、同盟に“担がれて”いたか?」

>時系列(主要点):

>1868年5月25日〜28日頃:上野脱出 → 榎本艦により平潟上陸(東北入り)。

>6月16日前後:列藩同盟内で盟主就任の趣旨が決められたという記録(研究によって日付差異あり)。

>7月12日:白石城に入り列藩会議に出席、以後白石城・仙岳院を行き来。

>9月15日:仙台藩降伏 → 9月18日に降伏文を提出。以後10月に東北を離れ、11月19日京都到着・蟄居処分。

>まとめると、東北滞在は概ね「1868年5月下旬〜9月(降伏時)」で、運動の中心期間は3〜4か月程度。この期間は短期(1か月以内)ではなく、列藩同盟形勢が悪化するまで同盟側の盟主として留まっていたことが史料で確認できます。

>★★これらが意味すること(史料に基づく評価)

>**「拉致され、一瞬だけ担がれ即脱出した」**という説明は史料と矛盾します。能久は自らが江戸(寛永寺)に常駐していたこと、旧幕府側の船で東北へ渡ったこと、列藩会議に出席していること、能久の名で令旨が発布されていることから、単なる被擁立者ではなく、同盟の政治的象徴として一定の能動的役割を果たした事実が確認できます。

>史料は「能久親王は単に拉致された無自覚の人質」ではないことを示す。彼は江戸常駐(輪王寺宮)であり、榎本らの船で東北へ移動し、列藩会議で盟主とされた上で能久名義の令旨を複数(少なくとも7月9日・10日など)発出している。そのため、少なくとも政治的象徴としての能動的関与は実証可能です。

>◆奥羽越列藩同盟出身者の陸軍進出

>戊辰戦争後、新政府は奥羽越列藩同盟出身者を陸軍や警察に登用しています。これは「能力ある者を取り込む」という政治的配慮が主目的であったとされます。

>北白川宮能久親王の行動を「半ば強制的に担がれた」と解釈する史観もありますが、陸軍大将に昇進させるなど、実際には一定の寛容・恩賞的処置がありました。

>その結果、板垣征四郎や石原莞爾、東条英機のように奥羽越列藩同盟出身者が陸軍で立身出世する土壌が形成されたことは事実です。

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>◆「経済的進路」と「上級者に付く」動機

>従来の歴史学では、東北の経済的条件や教育機会の不足が、陸軍への進路選択を促したと説明されることが多いです。

>ご指摘のように、北白川宮能久親王を陸軍大将に昇格させたことで、奥羽越列藩同盟出身者が「上級者に付いて出世する」という心理的・社会的動機も確かにあったと考えられます。

>経済的理由と政治的配慮が複合して、後の満洲事変や軍国主義者の立身出世に影響した、と見ることも可能です。

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>★★総合的評価

>北白川宮能久親王や奥羽越列藩同盟に対して厳正な処分を行わなかったことが、長期的に軍部の人材形成や一部軍国主義者の立身出世の要因となった可能性は十分に考えられます。

>つまり「手緩い処置」が後顧の憂いを招いた、という指摘には一定の合理性があります。ただし、直接的な因果関係を立証する一次資料はなく、あくまで歴史的・社会学的な分析・推測の域を出ません。

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>★★結論として、北白川宮能久親王の行動と


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