ローマ軍に入り込んだ体格が良く運動神経も抜群で金髪・碧眼のゲルマン人傭兵に頼り切って油断した結果、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルが西ローマ帝国を乗っ取り、その後ルネサンス(古代ローマ文化を復興)まで約1,000年の長きに亘り彼等がローマ人の市民権を剥奪し農奴制王国の暗黒時代とペストの蔓延する極めて不衛生な環境にローマ人を縛り付けた。
ゲルマン人と同じように古代から大和民族に反乱を繰り返した『日本のゲルマン人』たる東北の蝦夷(えみし)。
永きに亘る反乱の末、征夷大将軍(坂上田村麻呂)に降伏した東北の蝦夷(えみし)は、酋長のアテルイが西暦802年に処刑された後、俘囚として日本各地に移配された。
源頼朝は、体格が良く運動神経も抜群の東北の蝦夷(えみし)を源平合戦で“傭兵“として活用する一方、根っからの無法者(サイコパス)である東北の蝦夷(えみし)を討伐することも忘れなかった。
江戸時代には、俘囚として日本各地に移配された東北の蝦夷(えみし)の一部が悪代官の手先として拷問や処刑を生業として世襲した。
更に幕末になると、東北の蝦夷(えみし)は松平容保や酒井玄蕃など徳川の残党を担いで戊辰戦争で大和民族の官軍に対して猛烈に反抗した。
その後 薩長土肥の藩閥明治政府の日本近代化政策によって東北の蝦夷(えみし)や、東北の蝦夷(えみし)の血を引く穢多・非人には平民の法的地位が与えられた。
しかし、江戸時代に悪代官の手先として拷問や処刑家業として世襲した穢多・非人の中には暴力、詐欺、脅迫で我を通すヤクザに身を窶す者が出た。
ヤクザに身を窶した穢多・非人以外の東北の蝦夷(えみし)にも、日頃『日本人と支那人は兄弟』などと調子の良いことを言って支那人と親密な関係を築いて置きながら、突如として関東軍を率い柳条湖事件から満洲事変を強行した石原莞爾のような無法者(サイコパス)や、関東憲兵隊を率いて満洲における反日運動を弾圧し石原莞爾を側面支援した東条英機などが現れ、大和民族の旧日本軍の名誉を失墜させた。
19世紀初頭のゲルマン人(ドイツ人)クラウゼヴィッツ(プロシア王国の陸軍大学校長)が、紛争解決手段として外交の延長上に戦争を位置づける『戦争論』(1832年)を唱道したことに東北の蝦夷(えみし)は いたく感化されていた。
満洲事変当時、ハーグの常設国際司法裁判所長だった東北の蝦夷(えみし)である安達峰一郎<みねいちろう>は、関東軍を率い柳条湖事件から満洲事変を強行した石原莞爾の行動がケロッグ・ブリアン協定(1928年)、すなわち紛争解決手段として戦争に訴えることを禁じる国際法に違反すると明確に認識しながら、同じ東北の蝦夷(えみし)である石原莞爾や東条英機が常設国際司法裁判所から国際法違反の判決を受けて処罰されぬよう内々に日本政府に助言した。
長州人ながら東北の蝦夷(えみし)である後藤新平(初代NHK会長)に感化された松岡洋右は、国際法違反の判決を受けて石原莞爾や東条英機が処罰される事態を回避するため、日本政府が東北の蝦夷(えみし)である石原莞爾や東条英機暴走の責を一身に引き受ける形で国際連盟を脱退、すなわち紛争解決手段としての戦争を禁じた国際社会に公然と反抗した東北の蝦夷(えみし)の暴走を処罰せず日本国が その責を負うという日本全体の国際責任に転嫁させた。
ハーグの常設国際司法裁判所長だった東北の蝦夷(えみし)である安達峰一郎<みねいちろう>は、国際法の知識を悪用して柳条湖事件や満洲事変で暴走した東北の蝦夷(えみし)の所業を日本政府が罰する代わりに、その国際責任を日本政府が負う形に転嫁したのである。
東北の蝦夷(えみし)である安達峰一郎や、松岡洋右を唆した東北の蝦夷(えみし)である後藤新平の策動によって、柳条湖事件から満洲事変、更には関東憲兵隊による満洲における反日分子の取り締まりなど旧日本軍中枢に入り込んで暴走を繰り返した石原莞爾や東条英機が無罪放免となったことで、根っからの無法者(サイコパス)である『日本のゲルマン人』、東北の蝦夷(えみし)が更に付け上がった。
二・二六事件後の混乱に乗じて東条英機は憲兵隊を濫用して旧日本軍を統制下に置いた(『統制派』、すなわち日本版ファシスト党)。
そして根っからの無法者(サイコパス)である東北の蝦夷(えみし)、東条英機は『西洋蝦夷』であるゲルマン人(ドイツ人)との反米・極右軍事同盟締結に全精力を注ぎ込み、後藤新平に感化された松岡洋右に反米・極右軍事同盟を締結させた。
遂には奥羽越列藩同盟の雄藩だった長岡出身の山本五十六に一ノ谷の鵯越を彷彿とさせる真珠湾奇襲攻撃を立案、指揮させたのである。
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