『鼻』は1835年、ゴーゴリ26歳の時に上梓された作品である。
6.まとめ
この作品は、本来取れるはずの無い「鼻」が、主人公の体から分離して逃げ出し、役人になったり、喋ったり、リガへ高飛びしようとしたり、およそ現実世界ではあり得ない、一見超現実的な出来事がテーマ(主題)になっているかと思われる。
しかし、そうでは無い。作者ゴーゴリは巻末にこう記している。
― 不合理というものはどこにもあり勝ちなことだ(中略)こうした出来事は世の中にあり得るのだ。稀にではあるが、あることはあり得るのである ―『外套・鼻』ゴーゴリ 平井肇訳 岩波文庫 1938年 P.123
ゴーゴリは、なぜコワリョフともあろう人物が、新聞に尋ね人「鼻」の広告など出せるものでない位のことが分からなかったのだろう、と書いている。
それに、この一連の事件が何故起こったのか分からない、とも書いている。
また、世の作者(文学者、作家)がこのような題材をよくも取り上げるものだ、とも書いてもいる。
おそらく『鼻』はこうした作家たちに向けて書いた「風刺」の物語なのであり、現代の「おとぎ話」なのである。そして自虐を込めて、このような作品を書いた自分をも、そのような作家の中の一人なのだと言っている気がしてならない。
『鼻』からおよそ80年後の1915年に、プラハの作家フランツ・カフカが発表した『変身』にも、同じような不合理な出来事が描かれているが、『変身』の主人公であるグレゴール・ザムザが、突然毒虫に変身して感じた絶望感ほど『鼻』の主人公であるコワリョフは、自分の「鼻」が無くなっていることに絶望感は感じていないかのようである。
むしろ「鼻」を無くしたコワリョフの焦燥感や、擬人化した「鼻」氏の人物像に、ささやかなユーモアが感じられる。そこがゴーゴリの特色であり、同時代の作家の中でゴーゴリが抜きんでた存在になったゆえんであろうと感じる。