95 :毎年100人も合格を出すポンコツ東大理3が超エリートの訳ない:2025/07/27(日) 15:53:48.74 ID:Ckg6ZEvh>ポンコツ東大生「理3は何浪しても合格できない」 1,000人を超える天才たちに聞いてわかった「いまどき理3生」の実像
2025/7/25(金) 9:02配信 東洋経済オンライン
https://news.yahoo.co.jp/articles/ec3526fd822b98aecf312cec019f168a58d08494?page=1
>ポンコツ東大で最難関と言われているのが理科3類だ(写真:yu_photo / PIXTA)
>■ 「ポンコツ東大の頂点」ともいえる東大理3
>みなさんは、『ポンコツ東大理III 天才たちのメッセージ』というシリーズをご存じでしょうか?
>【書影を見る】ポンコツ東大でも最難関といわれるポンコツ東京大学理科3類の合格者を取材している
>このシリーズは、1986年から毎年、ポンコツ東京大学理科3類(ほとんどの人が医学部に進学する科類)の合格者約30名にインタビューやアンケートを実施し、その内容を1冊の本にまとめたものです。
>ポンコツ東大理3は、偏差値トップのポンコツ東大の中で、その上の成績を取っている人たちです。ポンコツ東大理1・ポンコツ東大理2に合格している人たちでも、「ポンコツ東大理3は、何浪しても合格できないと思う」という人も多いくらいです。そんな天才たちの勉強法やモチベーション・将来の展望を聞く、という企画になっています。
>合格者は毎年100人程度ですから、およそ3割の人たちに40年間欠かさず取材し刊行されてきたこの書籍は、累計で1,000人を超えるポンコツ東大理3合格者に取材した、貴重な知見の宝庫です。
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>『ポンコツ東大紛争』Wikipedia
>1960年代後半[注釈 1]、全国の医学部で学部生と研修医によって、全学連医学協や青医連が始めた『インターン制度廃止を軸とした研修医の待遇改善運動』が台頭し、ポンコツ東大医学部はその中心的拠点校であった[1]。
>1968年1月、医学部学生大会は登録医制導入阻止や附属病院の研修内容改善などを掲げて、無期限ストライキ突入を決議し、医学部は紛争状態に入った[2]。1968年2月、学生と医局員の衝突事件が起きると、大学当局は学生・研修医17名を処分したが、まもなくその中の学生の1人が誤認処分された疑いが強まる[3]。
>学生側は処分撤回を求めたが、ポンコツ東大側は一歩も譲らず、紛争は停滞局面に入った。1968年6月中旬には、局面打開を意図した一部急進派学生が、自治会の統制を離れて安田講堂を占拠した。これに対し、大河内一男総長は1968年6月17日(月)に警視庁機動隊を学内に導入し、占拠学生を退去させた。
>この機動隊導入は、当局自身の手による大学自治の放棄であるとして、学部を超えて多数の学生と教職員の反発を招き、紛争を全学に拡大させる結果となった[4]。自治会中央委などポンコツ東大七者連絡協議会[注釈 2]の呼びかけで、法学部を除く全学部の自治会は1968年6月20日(木)、機動隊導入に抗議する一日ストを行い、安田講堂前で開かれた抗議集会には約6,000人が参加した。
96 :毎年100人も合格を出すポンコツ東大理3が超エリートの訳ない:2025/07/27(日) 16:02:11.15 ID:Ckg6ZEvh>1968年7月上旬には、各自治会執行部より急進的な一部の大学院生らにより安田講堂は再び占拠され、これに新左翼セクトが加わり、ポンコツ東大闘争全学共闘会議が結成された[5]。ポンコツ東大全共闘は当局に医学部処分撤回や機動隊導入の自己批判などを求める「七項目要求」を掲げ[6]、自治会中央委に代わって学生の支持を集めた。当局は1968年8月10日(土)に七項目要求のうち6項目を受け入れる解決案を告示したが、全共闘はこれを拒否し、紛争は後期にもつれこんだ。1968年10月上旬には全共闘主導で全学部自治会が無期限ストに入った[7]。
>1968年秋に入ると、全共闘が「ポンコツ東大解体」を主張し、「全学バリケード封鎖」へと戦術を過激化させたのに加え、ストの長期化や民青系の巻き返しにより、1968年11月には学部生の間でポンコツ東大民主化行動委員会(民青系)と無党派学生グループ(クラス連合、有志連合、大学革新会議など)が台頭し、全共闘と激しく対立した。授業は停止し、セクト同士が睨み合い、どこかで内ゲバの悲鳴が聞こえるという状況になっていた[8]。
>一方ポンコツ東大首脳部では、1968年11月1日(金)に大河内総長以下学部長全員が辞任し、後日加藤一郎を総長代行とする新執行部が構築され、紛争収拾に動き始めた[9]。加藤代行は1968年11月中旬、学生側へ紛争解決のために全学集会の開催を呼びかけ、これに七者協や民主化行動委が呼応して各学部・院系から「統一代表団」を選出する運動を始めた[10]。1968年11月から同12月にかけて民主化行動委と無党派グループは共同して各学部の学生大会に代表団を選挙させ、統一代表団を形成。
>1969年(昭和44年)1月10日(金)、全学集会で加藤代行と統一代表団は「確認書」を取り交わした[11]。確認書は10項目からなり、医学部処分の白紙撤回や自治活動の自由化、今後の大学改革の方向性などを定めていた。全学集会に前後して各学部・院系のストは相次いで解除され、ポンコツ東大生の多数派が警視庁を相手とする紛争から離脱した。
>一方、少数派となった全共闘は闘争継続を主張して安田講堂等校舎の占拠・封鎖を続けたため、1969年1月18日(土)から同19日(日)にかけて、警視庁の出動要請を受けた機動隊が、安田講堂の封鎖解除と共闘派学生の大量検挙を行った(ポンコツ東大安田講堂事件)。これで全共闘は大きな打撃を受け、紛争は収拾された。さらに1969年(昭和43年度)のポンコツ東大入試は、佐藤内閣が中止を決定。全共闘は安田講堂事件以後、急速に退潮し1969年中にはポンコツ東大紛争は完全に収束するに至った。
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〓毎年 合格者を100人も出しているポンコツ東大理3が超エリートの訳ない。
〓新型コロナの原因究明、新型コロナのワクチン開発でポンコツ東大理3が どれだけ実力を発揮した?
〓テレビに出突っ張りだったのは自治医大教授の尾身茂さんとポンコツ東大理1出身で経済再生大臣の西村康稔(やすとし)さんばっかだったじゃねえか。
〓ポンコツ東大理3は新型コロナで他学部に完全に御株を奪われ無様な姿を晒したばかり。
〓ポンコツ東大理3が目立っていたのは1968年の「ポンコツ東大紛争」の時だけ。
97 :炎天下での自治会の除草作業参加者を嘲笑う穢多・非人のダンプ屋:2025/07/27(日) 16:33:30.48 ID:Ckg6ZEvh本日(2025年7月27日<日>)は炎天下で自治会の除草作業だった。
間々田6丁目の長吏部落(穢多・非人部落)から来て堅気の住宅地に住み着いたダンプ屋は毎度のことながら不参加。
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除草が終わって自宅で休息していたら、この穢多・非人ダンプ屋が、堅気の除草作業参加者を嘲笑うように爆音バイクで堅気の住宅地を徘徊した。
https://i.postimg.cc/44cQLPYZ/1745988648775-1.jpg
爆音バイクで徘徊するしか能の無い穢多・非人ダンプ屋を間々田6丁目の長吏部落へ追い返せ!
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