曲学阿世の御用学者に再びポン銀を丸投げするのか #96

96毎年100人も合格を出すポンコツ東大理3が超エリートの訳ない:2025/07/27(日) 16:02:11.15 ID:Ckg6ZEvh

>1968年7月上旬には、各自治会執行部より急進的な一部の大学院生らにより安田講堂は再び占拠され、これに新左翼セクトが加わり、ポンコツ東大闘争全学共闘会議が結成された[5]。ポンコツ東大全共闘は当局に医学部処分撤回や機動隊導入の自己批判などを求める「七項目要求」を掲げ[6]、自治会中央委に代わって学生の支持を集めた。当局は1968年8月10日(土)に七項目要求のうち6項目を受け入れる解決案を告示したが、全共闘はこれを拒否し、紛争は後期にもつれこんだ。1968年10月上旬には全共闘主導で全学部自治会が無期限ストに入った[7]。

>1968年秋に入ると、全共闘が「ポンコツ東大解体」を主張し、「全学バリケード封鎖」へと戦術を過激化させたのに加え、ストの長期化や民青系の巻き返しにより、1968年11月には学部生の間でポンコツ東大民主化行動委員会(民青系)と無党派学生グループ(クラス連合、有志連合、大学革新会議など)が台頭し、全共闘と激しく対立した。授業は停止し、セクト同士が睨み合い、どこかで内ゲバの悲鳴が聞こえるという状況になっていた[8]。

>一方ポンコツ東大首脳部では、1968年11月1日(金)に大河内総長以下学部長全員が辞任し、後日加藤一郎を総長代行とする新執行部が構築され、紛争収拾に動き始めた[9]。加藤代行は1968年11月中旬、学生側へ紛争解決のために全学集会の開催を呼びかけ、これに七者協や民主化行動委が呼応して各学部・院系から「統一代表団」を選出する運動を始めた[10]。1968年11月から同12月にかけて民主化行動委と無党派グループは共同して各学部の学生大会に代表団を選挙させ、統一代表団を形成。

>1969年(昭和44年)1月10日(金)、全学集会で加藤代行と統一代表団は「確認書」を取り交わした[11]。確認書は10項目からなり、医学部処分の白紙撤回や自治活動の自由化、今後の大学改革の方向性などを定めていた。全学集会に前後して各学部・院系のストは相次いで解除され、ポンコツ東大生の多数派が警視庁を相手とする紛争から離脱した。

>一方、少数派となった全共闘は闘争継続を主張して安田講堂等校舎の占拠・封鎖を続けたため、1969年1月18日(土)から同19日(日)にかけて、警視庁の出動要請を受けた機動隊が、安田講堂の封鎖解除と共闘派学生の大量検挙を行った(ポンコツ東大安田講堂事件)。これで全共闘は大きな打撃を受け、紛争は収拾された。さらに1969年(昭和43年度)のポンコツ東大入試は、佐藤内閣が中止を決定。全共闘は安田講堂事件以後、急速に退潮し1969年中にはポンコツ東大紛争は完全に収束するに至った。
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〓毎年 合格者を100人も出しているポンコツ東大理3が超エリートの訳ない。

〓新型コロナの原因究明、新型コロナのワクチン開発でポンコツ東大理3が どれだけ実力を発揮した?

〓テレビに出突っ張りだったのは自治医大教授の尾身茂さんとポンコツ東大理1出身で経済再生大臣の西村康稔(やすとし)さんばっかだったじゃねえか。

〓ポンコツ東大理3は新型コロナで他学部に完全に御株を奪われ無様な姿を晒したばかり。

〓ポンコツ東大理3が目立っていたのは1968年の「ポンコツ東大紛争」の時だけ。


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