今、ピアノを弾く兄に抱きついてエレファントカシマシ「今宵の月のように」を歌う妹を、明らかな子供を見て思ったが
記憶の上手さと理解の巧さは違うのでは
知能勢も年齢勢も、それに留まらず世間も、多くが記憶の上手さに過ぎないのでは
俺はそれが圧倒的に足りないが、理解の技巧に凝る様では一番ということ
こういうと、どうせ、その理解陳述と記憶と誤解ではあるが
なので、それらは全て、無視するが
そして、面白いのはその歌
上手いので、評価はされて、だけれども、歳を取って理解し、新たな巧さが生まれる
その時の、人のそれには、上手さが全く無いかも知れないということ
俺の何かにもそう
少なくとも何かには
いくら広く浅く濃くでも、何かは残るので
もしくは何も無く、かれかも知れないが
それは知らないが
俺はこんなことを思う
名歌でこんなことを思う