古典西洋音楽、クラシックの楽典は快感原則を記号と法則で体系化する為に発展してきたのよ
逆に言えば抽象文法である音楽(反復オンリーのものを除く)の意味性と快感原則の把握を重視したからこそ、記号による体系化が必要になったのね
この様な前置き/仕掛けを反復させてリスナーの脳にリズムや旋律を馴染ませた後に、落差を際立たせる為のリズムチェンジやフィルを配置してインパクトを与える、或いはその様な展開が「典型」となってる場合には敢えてセオリーから外れた形のパートを接続して驚かせる、といった演劇や小説映画漫画の様な「舞台設定や筋立てと構成の工夫」は、それが受け手の快感原則に作用しなければ意味が無いのはアタリマエ
トゥール楽曲の様な抽象的な意味性必然性に欠ける「リズムチェンジの為のリズムチェンジ」その他のギミックを「あんまり他で見られない、変わった事だから」と有り難がっちゃうだけで、快感原則の為の筋立て/構成の創意工夫等に関する把握や吟味を二の次にしてあれやこれやと論評して見せても、それは内実を伴わない「エア苦悩」若しくは虚ろな「スノッブ気取り」であって、
いつまでもそこに留まってるから「その音楽は何の為に創られ聴かれるのか?」という最もベーシックな音楽への欲求要求も認識出来ないまんま感覚的なハナシに終始するだけで、結局自身でもナニを言いたいのか言ってるのかもボンヤリしたまんま・・・
そんなんだから、常に劣等感と不全感・不満に苛まれ続けてるのよ?ホイミン先生みたいな仔はw