天皇は国政に携われないと憲法は示しいるので選挙権もなければ、政治家に
成れない身分であり、簡単に言えば自由や身分が制限されている特殊な国民と
いう立場だ。
国政に対して機能しない身分ってどんな身分なのかと考えたとき、非常に
哀れな身分であるということに気付く。
選挙権もなければ自由もない国民が国民の象徴というのだ。こんな不自由
な国民が国家や国民の象徴といえるのだろうか。
単に梅の花見の季節を表す令月とその花見を楽しむ雰囲気を表す和の文字を
選出した令和を年号にした軍国主義者たちの腹黒さには非常に憤りを感じるし、
天皇に与えられていない国政を担う政治家たちは国家国民の象徴としての
天皇の意志を示す年号にはその時代を象徴する年号を天皇に利用して
貰えるように、それにふさわしい年号を考るべきではないのか。
単に美しく、楽しく、安らかにでは国家国民の象徴としてはふさわしくない。
拉致問題、核兵器、震災、多くの国民が抱える問題を考えればそれに
相応しい年号はおのずと選出されるはずなのに、令和ではあまりにも
ちんけで、中身のない、軍国主義者たちが考える幼稚な年号でしかない。
時代を反映する年号でなければ、その年号の時代に生きる人々に取って
の象徴にはなれない。天皇が象徴であるならば年号もそれにふさわしい
年号でなければならない。梅の花見ではあまりにも天皇を馬鹿にしている。
花見の状況を年号にする馬鹿がいると思うと情けないし、それを選択した
国民が如何に馬鹿なのかと思うと馬鹿らしく為る。
「0=0、令和令」令和時代を語るとき、ゼロはゼロなんだということだ。