事件そのものの描写は、意外なほど簡略である。
難しいこと、不可解なことが綴られているわけではない。
文章はきわめて平明でわかりやすい。
見苦しい自己弁護や責任転嫁があるわけではない。
よく自己を分析し、過去を振り返った上で、犯行にいたった経緯あるいは心意を、
きわめて「正直に」告白している。
おそらく、その「告白」の内容は、読者の予見を裏切るものがある。
どのような犯罪者であれ、犯罪者は、取調べの過程において、
裁判の過程において、あるいは事件をめぐる報道において、
犯行の「動機」を追究される。それは、警察官を、検事を、
弁護士を、裁判官を、犯罪心理学者を、報道関係者を、
あるいは国民一般を納得させられるものでなくてはならない。
誰もが納得しうる犯行の「動機」、犯罪者自身の真摯な「反省」、
そして被害者への「謝罪」、この三つが揃ったところで、
ようやく犯罪者は犯罪者として、犯罪は犯罪として受容される。
犯罪者によっては、弁護士が用意したストーリーに沿って、
誰もが納得できるような「動機」を語る者もあるかもしれない。
ところが、少なくとも加藤智大被告においては、全く事情がことなる。
自分なりに考え抜いた犯行の動機を、それが人々を納得させることが
できるかどうかについて顧慮することなく(むしろ、それが人々を
納得させえないことを承知で)、「正直に」、また自分の
言葉で書き綴ったのである。
同書の「まえがき」にはこうある。
《今回、改めて全てを説明しようと、この本を書くことにしました。
私はどうして自分が事件を起こすことになったのか理解しましたし、
どうするべきだったのかにも気づきました。つたないながら、
それを説明できる言葉も見つけました。それを書き残しておくことで、
似たような事件を未然に防ぐことになるものと信じています。》
また、同書の「あとがき」にはこうある。
《私は、見ず知らずの人をまるで道具のように、人を人とも思わぬ
犯行で殺傷しました。無差別殺傷事件の動機は、社会に不満があり、
社会から抽出した人を殺傷して復讐した、とされるのが一般的ですが、
私は社会への不満など持っておらず、秋葉原の通行人に対しては何の
思いもありませんでした。むしゃくしゃして誰でもいいから殺したい、
と、やつ当たりで殺傷したのですらありません。自分の目的のために、
まるで道具のように、というより、まさに道具として人命を利用した、
最悪の動機でした。本当に申し訳ないことで、
改めて、心よりお詫び申し上げます。》
加藤被告は、自分の犯行に対してなされた世間の「解釈」を拒否している。
そうした世間の「解釈」に反論するために、この本を書いたのであろう。
同事件については、さまざまな解釈がある。しかしまず、犯行をおこなった
本人の「解釈」を聞くべきだろう。犯行自体、前例のないものであったが、
この本もまた、「稀有」なところがある。