彼女の手の中で動いていたのは生後15週目のトラフザメだった。ここはインドネシア東部に広がるラジャ・アンパット諸島の礁湖。
同国の海洋科学者であるネシャ・イチダはひざまずき、サメの赤ちゃんをそっとつかみながら水の中を漂わせた。
この赤ちゃんザメは、世界有数の水族館の研究者たちが数十年にわたって構想した、壮大な計画の産物だ。
水族館にいる絶滅危惧種のサメやエイを人工繁殖させ、その幼魚を各地の海で放流すれば、個体数の回復を助けられるのではないか。
ひいては海そのものの再生に役立つかもしれない、と考えたのだ。
その対象として最初に選ばれたのがトラフザメだ。イチダが今、今後10年間でトラフザメの幼魚を585匹放流する計画の第1号を海に放そうとしている。
イチダが両手を開くと、チャーリーは長い尾ひれを揺らし、するりと泳ぎ出した。予測できない未来が待つ砂の海底に向かって。
サメとエイは、4度の大量絶滅を乗り越え、4億2000万年以上の時を生きてきた。だが今、脊椎動物群のなかでは両生類に次ぐ速さで姿を消している。
サメがいなければ、捕食される側の生物が増え過ぎて、数十億人の人間を養っている自然のシステムが崩壊するかもしれない。
サメを守るためには乱獲を食い止めなければならないが、同時に、これまでに減った分を少しでも回復させられないだろうか。
飼育下にある絶滅危惧種を繁殖させ、野生に戻すことで、絶滅の淵から救うのだ。それを行き当たりばったりではなく、最先端の科学技術を使って実現させられるかもしれない。
米国の保護団体「コンサベーション・インターナショナル」の海洋科学者マーク・アードマンを突き動かしたのはそうした思いだった。
彼はいくつかの水族館を説得して協力をとりつけ、「リ・シャーク(サメを再び)」という団体を立ち上げた。このリ・シャークには現在、15カ国から44の主要な水族館を含む75の組織が参加している。
再導入の取り組みは、絶滅を食い止める手法としてよく用いられる。その代表的な例には、中国のジャイアントパンダ、米国のカリフォルニアコンドルなどが挙げられる。
だが海における再導入は、複雑で事例も少ない。海は広大で、海洋生物の追跡は難しく、生物への脅威もコントロールしにくいのだ。
「海が関わるものは、大変なんです」と、海洋生物学者のデビッド・シフマンは話す。
世界全体で見れば、人間は、水族館がどんなに補充しても追いつかない速さで、サメを殺している。
いずれにしても、再導入はすべての種に適用できるわけではない。ホホジロザメをはじめとする多くの種は、あまりにも活動的過ぎて飼育に向かないのだ。
だが再導入に向いていそうなサメは、モザンビークからタイ、モルディブなどのさまざまな海域に、まだ数十種はいる。リ・シャークでは
すでに、今後の再導入の候補選びを進めていて、カナリア諸島や英国南西部沖に生息するカスザメ、東アフリカのコモリザメやノコギリエイなどが挙がっている。
https://news.yahoo.co.jp/articles/489d5afea8a9e2ae65d076c224a6c20f2cc42d2c