タイモ三浦 → タイホ三浦 #991

991番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2023/03/19(日) 04:42:25.09 ID:???

秀頼の寺社造立

秀頼の寄進で再建された東寺金堂(国宝)。金堂の外観は、秀吉の造立した方広寺初代大仏殿を模して造立されたとの伝承がある[27]。

東寺南大門(重要文化財)。 本来は慶長6年(1601年)に方広寺(京の大仏)の寺領に組み込まれていた三十三間堂の西大門として秀頼により建てられたものである。明治の廃仏毀釈で西大門は破棄される予定であったが、東寺の門が明治元年(1868年)に焼失したので、それの代替として東寺へ移築されることになった。

秀頼と淀殿の寄進で再建された延暦寺横川中堂。ただし豊臣氏の寄進で造立された旧堂は昭和17年(1942年)に落雷で焼失してしまったため、現在のものは旧堂を模してコンクリート造で復元されたものである。

秀頼の寄進で整備された北野天満宮社殿のうち拝殿(国宝)。
秀頼は、秀吉没後から秀吉の追善供養として畿内を中心に、戦乱で荒廃していた多数の寺社に寄進を行い、伽藍や社殿の再興を図った。主なもので、寺院では東寺金堂・三十三間堂西大門(現東寺南大門)・延暦寺横川中堂・清凉寺本堂・真正極楽寺本堂・金戒光明寺阿弥陀堂・南禅寺法堂・相国寺法堂・寂光院本堂・大報恩寺本堂・法華寺本堂・勝尾寺本堂・鞍馬寺毘沙門堂 ・朝護孫子寺本堂・須磨寺本堂・金峯山寺威徳天満宮・善光寺本堂・四天王寺五重塔(移築)・醍醐寺本堂(移築)・金剛寺(諸堂の修理)・観心寺(諸堂の修理)などで、神社では石清水八幡宮・北野天満宮・住吉大社・誉田八幡宮・西宮神社・吉野水分神社・由岐神社・白鬚神社・都久夫須麻神社・熱田神宮・津島神社・出雲大社の各社殿などで、多数にのぼった。ただしこれらの事業について秀頼が幼少の頃になされたものも多く、秀頼の意思によるものかは不明確ではある。既述のように豊臣氏の財力を削ぐための徳川家康の謀略で、幕命でそのようにせざるを得なかったとする俗説もあるが、真相は定かではない。真相や思惑その背景は不明確だが、秀頼の代の豊臣氏の施策によって寺社の再興が進んだのは紛れもない事実で、その施策で造立され現存している建造物については、今日国宝や重要文化財に指定されているものが多く、その文化的事業に対して一定の評価が与えられている[5]。

秀頼の寄進で寺社勢力は宗勢を回復したが、方広寺鐘銘事件(京都大仏鐘銘事件)で豊臣氏が苦境に陥った時、寺社勢力で豊臣氏の弁護・助力に積極的にまわったものはなかった。歴史学者の村山修一は「(鐘銘文の作者)清韓は国家安康君臣豊楽と徳川豊臣の融和繁栄を裏に偶したつもりであったが、逆用曲解される始末になった。」「(鐘銘事件に類似した阿衡事件では)基経を諫止ないし批判した菅原道真のごとき人物が出たことは痛快というべく、これに対し鐘銘事件では誰一人正面から家康に反対意見を開陳した者はなく、作者清韓を支持したのはわずかに妙心寺の海山和尚ただ一人であった。」「鐘銘事件にみる(家康に加担・迎合した)僧侶の暗躍ないし幇間的行動は、古代中世にわたる日本仏教の権威に汚点を遺した。」としている[28][29]。

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