大川隆法ウィキペディア
1956年7月、徳島県麻植郡川島町(現在の吉野川市)に、畜産コンサルタントであった[1]父・善川三朗[7](本名:中川 忠義)と母・君子の次男として生まれた[1]。
徳島県麻植郡川島町川島小学校、徳島県麻植郡川島町川島中学校を卒業。幼少期は、GLAの高橋信次や生長の家に感銘を受けて日本共産党の活動家から転向した父[8][9] に「聖書」や「無門関」について教えられる[1]。10歳の頃、将来の夢は学者と外交官だったという[1]。1975年徳島県立城南高等学校を卒業。
1年間京都駿台予備校で浪人生活を過ごした後[10][8]、1976年に東京大学文科一類に入学し[1]、法学部第三類政治コースに進む[7]。法学部政治学の篠原ゼミに入る前にハンナ・アーレントの研究論文を作成した時には、教授から「マチュアー(成熟している)」という評価をもらったという[1]。その後、司法試験と国家公務員上級試験を受験したがいずれも不合格となり、また学者の道に進むこともなかった[1]。大川は、司法試験について論文問題にて実務家的論述ではなく学者的な視点で過去の判例を痛烈に批判する答案を提出したために合格できなかったとし、大学に残らなかったのは、思想家としての自分が師事すべき教官がいなかったと悟ったためと自らを振り返っている[1]。
1981年に法学部を卒業し、総合商社のトーメン(現豊田通商)に入社[1]。大学を卒業して商社マンとして勤める一方、この時期に宗教家としての「霊的覚醒」が始まったとされる[PR 3]。卒業を控えた1981年3月23日に仏教僧の日興・日蓮との間で「霊道」を開き[11]、その後に空海、イエス・キリスト、天之御中主と通信した内容を集めて幸福の科学の初期の霊言集が完成したという[12]。
1982年8月に米国法人のニューヨーク本社に研修生として派遣され、その間にベルリッツ語学学校ニューヨーク校を卒業[1]、ニューヨーク市立大学大学院センターで国際金融論を学んだ[PR 3]。
1985年からは「大川隆法」の名で父・善川三朗とともに出版活動を始め、1981以来4年間で収録した「霊言」を整理し、初めての著書『日蓮聖人の霊言』(善川三朗編、潮文社)を発刊。その後、『空海の霊言』『キリストの霊言』『天照大神の霊言』『ソクラテスの霊言』『坂本龍馬の霊言』等の著書を出版。1986年7月15日には5年4ヶ月間勤めたトーメンを退社して宗教家としての活動を本格的に開始する[PR 3]。それから1ヶ月後、幸福の科学の根本経典『正心法語』と、幸福の科学の宗教理論の基本書となる『太陽の法』を自動書記とする方法で記述した。 その後9月『黄金の法』を 自動書記で記述、同年11月に『永遠の法』を口述筆記し、これらを翌年出版した。