なぜか、佐用町に北条時頼の座像(重文)がある
「鎌倉殿の13人」北条義時のひ孫が残した幻の国宝 「時頼坐像」なぜ遠く離れた西国の地に?
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坐像を保存する会の船曳さんによると、かつて春哉は「下志文(しもしぶみ)」という地名で、北条氏の荘園だったという。
時頼は執権職を退いた後、僧侶となって諸国を行脚し、困窮した人々を救った。春哉地域に立ち寄った際、病に倒れ、3カ月間静養した-と伝わっているそうだ。
手厚く看病し、世話をしたのは住民たちで、時頼の正体を知ったのは、病が癒えた時頼が去った後。お礼として、和歌と自ら彫った木像を残していったとされる。
船曳さんは「滞在3カ月でここまで立派な坐像を完成させるのは無理。一部を彫ったのでは」とみる。