徳川方について戦争した根来寺を、秀吉が滅ぼした後、弟の豊臣秀長が、高野山に逃げていた根来寺の坊さんに長谷寺を与えて、豊山派が成立した
これ、秀吉が、醍醐寺の義演や、高野山の応其と親しかったからなんですね
徳川方について戦争した根来寺を、秀吉が滅ぼした後、弟の豊臣秀長が、高野山に逃げていた根来寺の坊さんに長谷寺を与えて、豊山派が成立した
これ、秀吉が、醍醐寺の義演や、高野山の応其と親しかったからなんですね
なんで秀長がそういうことをしたのか
考えられるとしたら、敵に回った新義を懐柔する、などだけれど
根来寺は徳川方なんだから、秀吉は、それを復興せずに、放置でもいいのではないか
比叡山を焼き討ちした信長と違って、戦後の処理で、単に寺を敵にした、で終わりでは後味が悪い、なのかな、とも思った
豊臣家が、醍醐や高野とつながりのある、古義の信者だから、新義が敵に回っても、古義の寺との人間関係で、新義に戦後のフォローを入れたって面があった、と考えるとしっくりくる
ふと思い至った話をメモしに来ただけです
44騙されるほうが悪い
あと、根来寺の坊さんが修行時代には高野山だと言っていたので、アンチ高野ではないのではないか
これはどうなんだろうな
高野山には、今でも覚鑁の住坊などもある
新義のアイデンティティーを保ったまま高野山に行くと、「1000年前の高野は堕落していて、うちが空海の正当後継者」になりそう
でも、高野山で悪い扱いをされなかったら、悪い感情は持たなそうなものだけれど
以上です
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