興教大師
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覚鑁の御生涯を貫く眼目は、高野山の復興と真言教学の振興にありました。これは『 求聞持立願文(ぐもんじりゅうがんもん) 』や『 伝法院供養願文(でんぽういんくようがんもん) 』などから窺われます。覚鑁が入山された当時の高野山は、たび重なる天災によって 伽藍(がらん) も荒廃し、その修復もままならず、 真然大徳(しんぜんだいとく) (804~891)によって始められた春秋二会の伝法会(学問研鑽の法要)も止絶した状態でした。覚鑁はこの状態を歎き、弘法大師の御遺言とされる『 御遺告(ごゆいごう) 』を守って、高野山をその昔に復興しようとされました。
しかし当時の高野山は、第二代 座主無空律師(ざすむくうりっし) 下山以来東寺長者の支配下にありました。そこで覚鑁は、高野山を高野止住の僧の手に収めて、弘法大師の遺志にそうよう努力されたのでした。
そして、宗団として宗風を刷新し、教学の興隆を図られ、そのためにはそれ相応の教育組織が必要であり、その機関として伝法院を建立し、伝法二会を設けて学山として振興しようとされました。
幸いに、 平為里(たいらのためさと) による私領 石手荘(いわでのしょう) の寄進や、白河法皇、鳥羽上皇といった有力な外護者を得て、伝法院と 密厳院(みつごんいん) が建立され、伝法会も再興されました。さらに覚鑁は大伝法院座主に就任し、これが金剛峯寺座主職を兼ねるという院宣を賜り、驚くほど短期日のうちに御誓願を達成されます。しかし、それが高野山内の保守派である金剛峯寺方との軋轢を生じさせ、わずか2ヶ月後の長承4年(1135)3月21日には両座主を辞任され、密厳院に 籠居(ろうこ) して無言三昧の行に入られました。これは保延5年(1139)4月2日までの4年間、1446日に及ぶ行でした。