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臨済は再び黄檗のもとに戻って事の顛末を報告すると、黄檗は「何とかしてあいつに会って、今度一発お見舞いしてやりたいものだ」と言った。すると臨済は「やりたいものだもあるものか。今度といわず、今すぐ喰らえ」と言うや否や黄檗の横面に思い切り平手打ちを喰らわした。殴られた黄檗は臨済の悟りを確信し、大笑して「この気狂いめ!よくもわしに向かって虎のひげを撫でるようなことをしおったな」と言った。
臨済はすかさず一喝した。これに黄檗は心から満足し、「侍者よ、この気狂いを禅堂に連れて行け」と言った。これが黄檗の印可(悟りを証明すること)の言葉だった。
大悟以降
その後、臨済は河北の有力軍閥である成徳軍節度使王紹懿(中国語版、英語版)(禅録では王常侍)の帰依を受け、真定府の臨済院に住み、興化存奨を初めとする多くの弟子を育て、北地に一大教線を張り、その門流は後に臨済宗と呼ばれるようになった。
その宗風は馬祖道一に始まる洪州宗の禅風を究極まで推し進め、中国禅の頂点を極めた。その家風は「喝」(怒鳴ること)を多用する峻烈な禅風であり、徳山の「棒」とならび称され、その激しさから「臨済将軍」とも喩えられた。
867年1月10日、臨済は弟子の三聖慧然を枕辺に呼び「私が死んでも正法眼蔵(仏の伝えた尊い教え)を滅ぼしてはならないぞ」と述べ、慧然は「どうして老師の正法眼蔵を滅ぼしたりなどできましょう」と応えた。すると臨済は「では今後、人がお前に尋ねたならどう応えるのか」と問うと、慧然は一喝した。臨済は「わしの正法眼蔵が、この馬鹿坊主のところで滅びてしまうとは、いったい誰が知るであろうか」といい、そのまま端然として遷化されたとされている。
語録
語録として『臨済録』が弟子の三聖慧然によってまとめられ、北宋代に印刷されて以降、広く流布し、「語録の王」と称されている。