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東京都江東区のタワーマンション建設現場で、今年4月から立て続けに3発の不発弾が見つかった。いずれも太平洋戦争末期に米軍が投下した焼夷(しょうい)弾とみられる。この影響で、調査や撤去のため、マンションの工期が長引く恐れも出てきた。74年前に終わった戦争の影が、いまだに尾を引いている。
江東区によると、現場は来年の東京五輪・パラリンピックのテニス会場のはす向かいで、一発目は四月五日、基礎工事のため地中を重機で掘削中に発見。六月五日に自衛隊が撤去した。ところが同十四日に二発目、七月十六日に三発目が見つかった。二発目の処理は同二十八日に終え、三発目を九月十六日に撤去する。
不発弾はいずれも五百ポンド(約二百二十七キログラム)の米国製で、長さ約百二十センチ、幅約四十センチ。地表から三~四メートルの地中に埋まり、さびていたが、起爆装置は二カ所に付いたままで危険な状態だった。しかも直径十メートルの範囲内に収まるほど、三発とも近くで見つかった。
東京大空襲・戦災資料センター(江東区)の比江島大和(ひえしまひろと)学芸員によると、不発弾は重さや形から「M76」焼夷弾とみられる。米軍の記録で、東京への空襲でM76が使われたのは一九四五年五月二十五日深夜から翌二十六日未明の空襲だけだった。
この空襲は「山の手空襲」とも呼ばれ、現在の千代田区や港区、渋谷区、中野区など四三・五平方キロメートルが焼かれて十五万六千戸が被災、三千二百四十二人が亡くなったとされる。宮城(きゅうじょう)(現在の皇居)の明治宮殿も全焼した。焼失面積は同年三月十日の東京大空襲とほぼ同じで、東京ではこれが最後の大規模空襲だった。
東京大空襲などで狙われなかった、霞が関や永田町にあるコンクリートやれんがの建物も標的にされた。このため木造住宅向けの焼夷弾より、貫通力のあるM76も使われたらしい。
一方、当時の有明地区はまだ浅い海だったとみられる。一帯は三五年に埋め立て免許が出たが、工事終了は六五年。戦後すぐの四七年に撮影された航空写真では、海面が広がっている。
比江島さんは「東京湾から山の手方面に侵入したB29が、目標より手前にM76を落とし、海底の砂に埋まって不発に終わった可能性がある。M76は狭い範囲に集中投下されたので、近くで三発見つかってもおかしくはない」と推測する。
(続く)