東京新聞:尾を引く、A級戦犯合祀 上皇さま元側近「靖国参拝できる状況でない」:社会(TOKYO Web)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201908/CK2019081402000144.html
創立百五十年に合わせた靖国神社の参拝要請を宮内庁側が断り、平成は神社創立以来、初めて天皇参拝がない時代となった。戦後七十四年。戊辰戦争の官軍側の犠牲者を慰霊するため明治天皇の意向で造られ、「皇軍」の戦没者らも祭る「天皇の社(やしろ)」の危機感は深まり、新たな転機を迎えたともいえる。上皇さまの元側近は「静かな環境で参拝できる状況ではない」と明かす。A級戦犯合祀(ごうし)が尾を引いている。
▽焦り
上皇さまの退位が決まって以降、靖国側は「平成の御代(みよ)に何とか天皇陛下の参拝を実現しなければいけない」(幹部)と焦りを募らせていた。
戦没者らを慰霊、顕彰する中心はあくまで天皇で、宮司らの役割は「代行」にすぎないというのが靖国の立場だ。在位中に国内外で慰霊の旅を続けた上皇さまは、皇太子時代に参拝しているが、即位後は一度も足を運ぶ機会がなかった。
参拝要請を断られた靖国神社関係者には今、諦めムードが広がっている。「明治以降、初めて天皇参拝を果たせなかった。再開は難しいだろう」
昭和時代も含め一九七五年を最後に天皇参拝が途絶えているのはなぜか。背景の一つにはA級戦犯十四人の合祀がある。
▽主導
主導したのは、七八年七月に宮司に就任した故松平永芳(まつだいらながよし)氏だった。当時の中堅幹部故馬場久夫氏によると、松平氏は就任直後の会議でA級戦犯合祀が「宮司預かり」になっていて宙に浮いているのを知り激怒、合祀手続きを急ぐよう部下に指示し、この年の十月実現にこぎつけた。
A級戦犯を裁いた極東国際軍事裁判(東京裁判)について「戦勝国による東京裁判を認めるわけにはいかない」というのが持論だった。十四人は「昭和殉難者(じゅんなんしゃ)」として祭られた。
松平氏は旧海軍出身で、父は戦後に最後の宮内大臣と初代宮内府長官を務めた松平慶民(よしたみ)氏だ。二〇〇六年に公になった故富田朝彦(とみたともひこ)元宮内庁長官の八八年四月のメモによると、昭和天皇がA級戦犯合祀に触れ「松平は平和に強い考(え)があったと思うのに、親の心子知らずと思っている」と漏らし「あれ以来参拝していない。それが私の心だ」と不快感を示していた。
▽慎重
旧厚生省が六六年、A級戦犯を含む「祭神名票」を靖国神社に送り、神社総代会もA級戦犯合祀を了承していた。ただ松平氏の前任宮司の故筑波藤麿(つくばふじまろ)氏は慎重な姿勢を崩さず亡くなった。自身の長男には「戦争責任者を戦没者と一緒に祭ると納得しない犠牲者も多いだろう」と胸中を明かしていた。富田氏のメモにも昭和天皇が「筑波は慎重に対処してくれたと聞いた」とある。
靖国を支える遺族会の一部には天皇参拝を実現するためA級戦犯の分祀(ぶんし)を求める声があるが、靖国側は神道の在り方を踏まえ「認められない」と主張している。
上皇さまの元側近はこう話す。「(天皇)参拝は、政治的にも国際的にも多くの反響を呼ぶ。戦没者慰霊の重要さは上皇さまも現在の天皇陛下もよく承知しているが、とても参拝できる状況ではない」