毎年「あいちトリエンナーレ」を見に行っている異世界住人が多数観測されてしまう #14

14番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2019/08/08(木) 09:50:57.26 ID:kUQhbBjQ

http://www.aicajapan.com/wp/wp-content/uploads/AICA_Japan_opinion_2019_08.pdf

「あいちトリエンナーレ 2019」における
「表現の不自由展・その後」の中止に対する意見表明

2019 年 8 月 7 日
美術評論家連盟
会長 南條 史生

 美術評論家連盟は、暴力的威嚇や脅迫による混乱を理由として、また、河村たかし名古屋市長による、それらの威嚇に同調するかのような展示中止要請も受けて、「あいちトリエンナーレ 2019」における国際現代美術展の一部である「表現の不自由展・その後」のセクションが開始後わずか3日で中止を余儀なくされた異常事態に直面し、それが今後にもたらす影響について深く憂慮します。

 もとより表現活動が暴力や脅迫によって抑圧されることはあってはなりません。今回の事態の経緯の問題は、こうした暴力行為から市民の活動を守ることが警察を含めた行政の役割であるにもかかわらず、暴力行為から守るという理由で、その暴力が要求する展示の中止を受け入れざるをえなくなったという点にあります。

 民主主義とは、個々の市民がそれぞれ自ら判断し意見を表明する能力を持つことを国家および行政が尊重し信頼すること、そしてそれによって市民も国家、行政への信頼を醸成しうるシステムです。行政がこの信頼関係を放棄することは、この国が恐怖に支配され暴力に追随する危険な国だと自ら示したことになります。

 今回の事態は、まさに憲法 21 条に明記された「表現の自由」という民主主義の基本理念が根本から否定されたことを意味しています。今回のように暴力と恐怖に後押しされた要請を受け入れるとき、行政、また政治の正当性、存在理由はいかに確保されるのでしょうか。

 そもそも公的組織が芸術・文化事業を「公」的にサポートすることの意味は、民主主義に基づく憲法の精神、つまり表現や意見の多様性を保障することのはずです。自らへの批判をも一意見として尊重し、その検討・議論を深める機会を奪わないこと、これこそが公的な文化支援の原則ではないでしょうか。

 行政による作品の撤去や隠蔽は、すなわち、その作品の意味を固定して市民の自主的な判断能力を信用しないこと、市民自ら判断する権利、鑑賞する権利を奪うことを意味します。市民がなにかを知ろうとする健全な好奇心さえ遮断されてしまうということです。このような状況では健全な文化の発展など望めません。

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