1919年に制定され、当時最も民主的だと言われたドイツの「ワイマール憲法」。しかし48条「大統領緊急令」が濫用されて、ヒトラー独裁が生じた。自民党改憲草案の「緊急事態条項」の危険性と併せて、ドイツ近現代史の研究者・石田勇治さん(東京大学大学院教授)に問題点を聞いた。
授権法制定までわずか54日
ナチ差別法も乱立
ヒトラー独裁がホロコースト(ユダヤ人大虐殺)へと行き着いた1933~45年のドイツ。国民主権や基本的人権が明記された「ワイマール憲法」のもとで、なぜ独裁政権が誕生し、国民の基本権が効力を失い、やがて無数の命が奪われたのだろうか。
独裁への入り口は、ワイマール憲法48条(緊急事態条項)の「大統領緊急令」(※1下図参照)だったと、石田勇治さんは話す。
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「世界恐慌の影響で失業者が急増し社会不安が深まった1930年代初頭、国会では政党間の利害対立が激化。国会は立法府としての機能を果たせず、これを緊急事態ととらえた政府は、法律と同等の効力をもつ大統領緊急令を用いて国政にあたりました。議会政治は名ばかりとなり、国会は空洞化しました」
当時の大統領は帝政主義者で陸軍元帥のヒンデンブルク。国民の直接選挙で大統領に選出されたが、民主的な憲法に懐疑的だった。そのヒンデンブルクが、同じく反憲法の姿勢を示すヒトラーを33年1月末、首相に任命(※2)。そこからヒトラーは独裁を目指して突き進む。
※2 ワイマール憲法下のドイツは、直接選挙で選ばれる大統領が首相の任命権をもつなど強大な権限が与えられていたが、対する国会も国民投票を通して大統領を罷免できる権限をもっていた。
「国民の大多数がナチズムに熱狂していたと思われがちですが、ヒトラー首相就任直前の国会選挙でのナチ党の得票率は33・1%。投票率が80%なので、ナチ党に投票した有権者は26%に過ぎません。ヒトラー政権は少数派政権で、これを支えたのはやはり大統領緊急令でした」
(続く)