【社会】大東建託、相次ぐ社員自殺の背景 「ひとつ、取り組んだら離すな、殺されても離すな、目的完遂までは」と毎日大声で唱和、社員を「ブタ」呼ばわり #2

2番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2018/07/01(日) 15:21:46.93 ID:???

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牟田口廉也(むたぐちれんや)とは、かつて大日本帝国陸軍に所属していた軍人である。

明治21年 (1888年) ~ 昭和41年 (1966年)。最終階級は陸軍中将。

概要

現代では、史上まれに見る愚将として有名。あまりにもボンクラで、兵隊からは「鬼畜牟田口」「無茶口」と罵られた。

終戦後にA級戦犯として捕まったが、シンガポールで不起訴処分となる。

陸軍悪玉論を語る場においては、必ずと言っていいほどこの人の名前が出てくる。

インパールまでの経歴

支那事変前まで

佐賀県出身。熊本幼年学校・中央幼年学校を経て、明治43年陸軍士官学校卒業(22期)。
同年、陸軍少尉として熊本の歩兵第十三聯隊に配属。
大正6年に陸軍大学校卒業(29期)。翌年参謀本部付。
大正9年に陸軍大尉。参謀本部部員になる。
大正15年に陸軍少佐。近衛歩兵第四聯隊に配属。翌年に陸軍省軍務局課員。
昭和4年フランス出張を経て参謀本部部員。翌年陸軍中佐。
昭和8年に参謀本部総務部庶務課長。翌年陸軍大佐。
昭和11年支那駐屯歩兵第一聯隊長。

難関の陸軍大学校を中尉になってすぐに合格しており、頭は悪くはなかった。しかし長らく中央勤務が続いており、彼の官僚的思考に凝り固まってしまう原因になった。

支那事変

昭和12年に起こった盧溝橋事件では、現地に駐在する支那駐屯歩兵第一聯隊の聯隊長だったこともあり、所在不明の銃撃について反撃するように命令を下している。この時の口火となった攻撃命令を無断で牟田口連隊長が先決し、河辺旅団長が追認した。その時の関東軍参謀長が東条英機であった。実はこの関係はインパール作戦の時も同様である。
翌年、関東軍司令部付。陸軍少将。さらに昭和14年陸軍予科士官学校の校長に就任。
昭和15年陸軍中将。

大東亜戦争(ウ号作戦まで)

昭和16年12月、牟田口は第十八師団長として南方作戦に従軍。マレー作戦、シンガポール作戦に参加している。
シンガポール作戦においては、テンガー飛行場の攻略中に、近接したオーストラリア兵から、手榴弾攻撃に合い、血塗れのまま指揮を執った。次いで、ビルマ攻略作戦に参加。

昭和17年、南方軍がアッサム地方の攻略する作戦を立案したが、兵站の準備不足から第十五軍司令官と共に反対しており、無期延期にしている。
翌年に第十五軍司令官に任命される。

ここまでは何ら問題なく、むしろ好評価すらあった。しかし、後の行動で評価が一変した。

インパール作戦

彼の愚将としての評価を定着させたエピソードが、日本軍が大敗したインパール作戦である。

第十五軍司令官となった牟田口は、従来の守勢から攻勢によるビルマ防衛へ方針転換を行い、イギリス軍の拠点インパールからインドのアッサム地方への侵攻計画を構想した。
これは前年、南方軍が立案した計画を改良したものだった。前年には、彼は作戦に反対したものの、太平洋地域のアメリカ軍に対応する為に陸上部隊や航空戦力が引き抜かれており、またウィンゲート旅団によるゲリラ戦で防衛線を突破されないか不安であった。
インド独立運動の誘発や積極的攻勢に出て防衛範囲を限定させようとして作戦決行に踏み切った。

作戦を立案した際に、補給ができない事を理由やウィンゲート旅団の討伐後の部隊休息・再編成を理由にに参謀長や指揮下の師団長などのほぼ全員が反対、にも関わらず主張を変えなかった。第十八師団の田中師団長の進言もあり、反対派の参謀長を更迭してしまった。(

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