眼鏡店266年の歴史に幕 コンタクト誕生地「玉水屋」
創業二百六十六年の老舗眼鏡店「玉水屋」=名古屋市中区錦三=が今月末で閉店する。名古屋の小売店で有数の歴史を誇り、コンタクトレンズ誕生の地にもなった。しかし、ビルの老朽化や低価格店との競争激化から長い歴史に幕を下ろす。
近江商人の流れをくむ初代の千歳屋佐兵衛が一七五一(宝暦元)年に京都から名古屋に移り住んで独立。たばこ入れや巾着、竹工芸などの紳士小物を扱った。尾張藩の御用商人とのつながりから、長崎と名古屋を往復して仕入れを行い、西洋文化に触れる機会に恵まれた。
八代目社長の津田節哉さん(79)は「最先端だった眼鏡にも触れたのではないか」と推し量る。明治以降、眼鏡が主力商品になり、戦中に専門店になった。
コンタクトレンズメーカー「メニコン」(中区)創業者の田中恭一さんは玉水屋の出身。戦後、常連の米軍将校夫人から、コンタクトレンズの存在を教えてもらう。竹彫作家だった父親ゆずりの手先の器用さで、試行錯誤を繰り返しながら国産化に成功。玉水屋の入り口には「コンタクトレンズ誕生の地」の銘板がはめ込まれている。
八代目の津田さんは一九六四年に入店し、六年かけて米国で眼鏡づくりの専門資格を取得。日本では、視力測定や調整などを先輩から徒弟制で教えてもらうのが一般的で、技術水準にばらつきが大きかった。
津田さんは加入する公益社団法人「日本眼鏡技術者協会」で認定眼鏡士の資格創設を主導。今では八千人の資格者が活躍し、眼鏡づくりの水準向上に貢献した。
計測器の質向上で、低価格店の新人店員でも眼鏡は作れる。だが、津田さんは「仕事場の環境や業種、趣味などを聞いて生活をよく知らないと良い眼鏡にはならない」と使う人に合わせた眼鏡づくりにこだわり続けてきた。
しかし、名古屋三越栄店北で大津通に面した自社ビルが老朽化。別の店舗を探したが、近辺は家賃が高すぎて立ちゆかないことが分かり、後継者不足も相まって閉店を決めた。津田さんは「先祖からの家業の歴史が途絶えるのが一番苦しい」と話している。
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