「国民の奴隷(公僕)」にはならないが、「安倍政権の下僕(補完勢力)」は買って出る橋下氏
大阪系が“離党騒動”を起こした8月下旬は、安保法制の参院審議が山場を迎えようとしていた時期だった。安倍政権は、衆院の強行採決で支持率低下を招いた事態を回避しようと、維新との与党協議をまとめようとしていた。「合意にまで至らなくても委員会採決には出席してもらい、強行採決の印象を和らげる」という狙いは明らかだった。
しかし自民党の“維新工作”も同時期にピタリと止まった。衆院段階では合意に至らなかったものの、参院審議に入ったばかりの頃は、維新独自案(対案)の早期提出を呼びかけ、与党協議再開にも意欲的だった。
これを受けて維新は8月20日に8本の対案うち5本を提出、与党協議も28日に再開したが、その直前の27日になると、高村正彦副総裁は「(維新との)話し合いには真摯に対応するが、維新が一本にまとまってくれるか慎重に見ないといけない」と述べ、一転して消極的な姿勢となった。
「この時まで安倍政権は、修正協議で参院での強行採決は回避したいと考えていた。しかし維新分裂が決定的となり、執行部が政権対決姿勢を強めることが確実になったため、自民党の思惑が外れて方針変更を余儀なくされた」(永田町ウォッチャー)。
安倍政権の“維新工作頓挫”は、党内闘争で大阪系が執行部に敗北したことを意味する。山形市長選の野党系候補を支援した柿沢未途幹事長(当時)辞任を強く求めた松井一郎・大阪府知事(維新顧問)は、25日に菅義偉官房長官と面談。この頃、後任幹事長として大阪系の馬場伸幸国対委員長の名前も挙がっており、安保法制の修正協議を左右する幹事長ポスト争奪戦の様相を呈していた。与党補完勢力志向の大阪系が、野党共闘・政権対決姿勢の松野執行部の要職を奪還しようと仕掛けたというわけだ。
ちなみに柿沢幹事長(当時)は、小林節・慶應義塾大学名誉教授から「合憲」の評価を得た独自案作成に尽力した中心人物。今井雅人政調会長(当時。現在は幹事長)や小野次郎安保調査会会長らと共に小林氏に面談、助言を受けつつ独自案を仕上げた。柿沢氏は与党協議でも「独自案のつまみ食いは許さない」と自民党に強い姿勢を示していた。