「ゆーたいする。ゆーたいする」
最初、小林さんは、脱走することばかり考えていました。八路軍の「思想教育」も受け入れませんでした。しかし、日本語を話せない八路軍の兵士は「ゆーたい(優待)する。ゆーたいする」と、気さくに声をかけくれ、決して手荒な扱いをしませんでした。
次第に警戒心を解いていった小林さん。兵士からもらった「蟹工船」や「社会科学叢書」などの本を手に取り、日本が起こした戦争は間違っていると考えるようになりました。日本への留学経験を持つ将校、張致遠氏の説得に応じ、日本軍向けの反戦ビラを作るようになります。
反戦ビラは、兵士に無駄死をしないよう呼びかけるものでした。偽名を使うことも可能でしたが、小林さんはあえて本名のままにビラを作成し、日本軍の拠点に撒きました。
終戦後は中国で日本人を帰国させる仕事などにつきました。日本には1955年、第12回帰国団で帰国します。帰国後は、中国語の語学を生かし、貿易会社で通訳の仕事をしました。