戦前最後のノーヒットノーラン右腕、石丸進一(22) 神風特攻隊として沖縄へ出撃 最後の言葉は「我、突入す」

1番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2015/08/04(火) 15:52:48.63 ID:ObEGAaRr

戦前最後のノーヒッター 神風に散った22歳・石丸進一の在りし日

戦後70年が過ぎようとしている。当たり前のように球音が響く平和で、幸せな時代。
しかし、第2次世界大戦ではプロ野球界も例外ではなく、多くの選手が戦火に散った。
そんな中で唯一、神風特攻隊員として戦死したのが石丸進一投手(享年22)だ。
名古屋(現中日)の一員として、戦前で最後のノーヒットノーランを達成した右腕。おいの石丸剛さん(63)に、ありし日の石丸の姿を聞いた。
石丸進一は、どこにでもいる野球が大好きな青年だった。「投手じゃない日は野手で出場したり、試合のない日は近所の子供と草野球をしたり…。
本当に野球が好きだった、と父から聞いています」。石丸剛さんは進一の兄で同じ名古屋でプレーした石丸藤吉(91年死去、享年77)の息子。現在も遺品や写真などを管理している。

父から聞いた剛さんの話によると、石丸が最後に残した言葉は、モールス信号での「我、突入す」だったという。1945年5月11日。
鹿児島・鹿屋基地から沖縄方面へと出撃した。500キロの爆弾を抱えて。そして、そのまま帰らぬ人となった。
藤吉が最後に会った時は「敵艦に体当たりして轟沈(ごうちん)させる」と話す弟を、「そんなに死に急いでどうする!」と諭したという。
「兄さん、そんなこと分かってるよ」――。それが石丸の答えだった。
出撃前、鹿屋基地では戦友に「死にたくない、怖い」とも漏らした。兵舎の陰で泣いている姿もあった。22歳。死の恐怖と必死に闘っていた。
石丸は41~43年に名古屋でプレー。投手として42年に17勝、43年に20勝を挙げた。
捕手に「ミットを動かさないで」と告げ、低めへの抜群の制球力を武器に常に直球勝負だった。
戦争がなければ、どれだけの成績を残しただろう。全ての運命は狂い、そして戦争に命まで奪われた。
出撃直前。石丸は鹿屋基地で、東京六大学・法大出身の本田耕一少尉を相手に、最後のキャッチボールを行った。
万感の思いを込めて投じた10球。従軍記者だった山岡荘八(のちの作家)が審判を務め、「涙でよく見えなかった」という10球は全てストライク。
そしてグラブを置き、ボールを戦闘機へと持っていった。出撃。
しかし、石丸は持っていったはずのボールを鉢巻きで巻いて、風防から放り投げたという。
これから死ぬ、と分かっている時の最後のキャッチボール。そのボールに永遠の別れを告げ、死地へと旅立った。
剛さんは「どんな思いだったのか…」と今でも考える。

「こういう形で一人の若者が亡くなった、ということを忘れないでほしい、と思います。こういう事実が日本にあった。平和に野球ができるのが当たり前、と思わずにいてくれれば」と剛さん。
あれから70年。「私の叔父は、敵国のスポーツといわれた野球をこよなく愛していた。職業軍人でも、反戦活動家でもない。
ただ純粋に野球がやりたかったんです」。盛夏。各地で聞かれる球音は平和の、そして鎮魂の響きにも聞こえる。

http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/08/04/kiji/K20150804010866050.html

2番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2015/08/04(火) 17:23:21.41 ID:sJafohYR

やっぱり戦争いやなんよ

3番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2015/08/04(火) 17:39:09.09 ID:Yzc9RnVu

敵艦にもノーヒットだったわけか

4番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2015/08/04(火) 18:03:00.45 ID:VDOfEz9e

こうしてネットでくだらんことを自由に書きちらしながら
冷えた美味しいあずきバーを食えるのも
70年間の平和の積み重ねがあるから

5番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2015/08/04(火) 19:09:09.72 ID:qUFMhuMD

俺も昨日アークバードに神風してきた

6番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2015/08/06(木) 10:59:49.22 ID:o4bSvR+E

無駄死、笑える


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