重さ数キロの火薬が入った木箱を背負い、起爆用のひもを腰に結んで草むらに潜む。
70年前、24歳だった元陸軍1等兵の塚原太一さん(94)=北九州市小倉南区=は、
100メートル先のソ連軍の戦車が動き出すのをじっと待っていた。
1945年8月18日早朝、旧満州(現中国東北部)北西部の大興安嶺(だいこうあんれい)山脈の
ふもと。塚原さんは、敵の戦車に飛び込み自爆する「肉薄攻撃」、通称「肉攻(にくこう)」と
呼ばれる作戦に加わっていた。
45年3月、24歳の時に召集令状が来た。入隊すると、30?40歳代の補充兵ばかり。小銃を
持って走る訓練では足の遅い年配者が若い上官からビンタを食らった。「肉攻」という言葉を知った
のも隊に入ってからだ。木箱を背負った男たちが、戦車に見立てたリヤカーの下に、声を張り上げ
ながら頭から滑り込む動作を繰り返す。漫画のような世界に「日本は負けるのかもしれない」と思った。
ソ連軍と遭遇したのは8月9日。山の上で陣地を築いていた昼ごろ、聞こえた飛行機音で空を見上げ
ると、翼に赤い星のマークがついた戦闘機が機銃掃射を浴びせてきた。ソ連軍の戦車隊がすぐに山麓
(さんろく)まで侵攻し、山頂側にいる日本軍とにらみ合いとなった。
戦車、戦闘機、マンドリンと呼ばれた短機関銃のソ連軍に対し、小銃、手投げ弾、てき弾筒(小型
迫撃砲)の日本軍は兵力、武器とも大きく劣る。
毎日誰かが肉攻に出て行き、帰らぬ人となった。だが、戦車は白煙とともに上下に揺れるだけで、
何事もなかったかのように再び動き出す。「ああ、肉攻をやっとる」。喜怒哀楽の感情はうせた。
15日の終戦を知らないまま、塚原さんら10人は17日、隊長から呼び出されて「山を下る。遺書
を書け」と肉攻を言い渡された。「今から死のうという時に何も残す言葉はない」。塚原さんは白紙
の便箋と、自らハサミで切ったわずかな頭髪と爪を封筒に入れた。水筒のふたに酒をつぎ、仲間たち
と別れの杯を交わした。
http://mainichi.jp/shimen/news/20150715ddm010040006000c.html