当時、「全国優勝するよりも、能代のレギュラーになることのほうが難しい」と言われた時代。ただ、田臥には遠征で他校を訪ねた記憶がない。そのかわり、加藤監督の言葉を今も鮮明に覚えている。
「『俺たちが行くんじゃない。他のチームが来たくなるのが、能代工業だ』ってよく言われました。選手にも、そういうプライドがありましたね。
だから、夏だからといって遠征することはなかったですし、近くに寮があったので、『おまえたちは毎日が合宿のようなものだ』って言われてました」
もちろん、厳しい練習に耐えられず、逃げ出す部員もいた。
「学年にひとりはいましたね。僕らの代もいました。でも、逃げたら必ずバレるんです」
能代駅のあるJR五能線は終電が早いため、夜中に逃げ出すことはできない。授業中に逃げ出せば、すぐに教師に気づかれてしまう。必然的に、逃げるなら一般生徒に混じって下校時刻に、ということになる。
しかし、そこはバスケの町・能代。「駅にデッカイのがいたぞ。この時間にいるのはおかしいぞ」と、すぐに学校に連絡が入る。結果、逃亡者は能代駅の構内、もしくはとなりの駅でマネージャーに捕まる。
「寮にみんなが集まって、逃げ出したヤツを囲んで、『もうちょっとがんばってみようぜ』って励まし合いましたね。僕ですか? 逃げたいって思ったことはありますけど、逃げる勇気がなくて(笑)」
能代市民の多くがバスケ部のファンだった。ほとんど交通量のない交差点だったとしても、信号無視をするバスケ部員がいると、すぐさま学校に連絡が来た。
「強いのは当たり前。部員は人としても立派であってほしい」。その期待を背負うことが、能代工業のバスケット部員になるということだった。
代々語り継がれる都市伝説があるという。
「(加藤)三彦先生も能代のOBなんですが、先生が高校生だったころ、全国大会で負けた後、店に行くと商品を売ってくれなかったそうです。『買い物をする暇があるなら練習しろ』と。
反対に、僕たちが全国大会を連覇しているとき、食堂でラーメンを頼んだら、一緒にカツカレーが出てきたりしました。『これも食べな』って。
いち高校のバスケ部に、これほど興味を持ってもらえる町なんて、能代以外、全国のどこにもにないだろうなって。町全体が能代工業バスケ部を応援してくれていた。なんて素晴らしい環境だって思いながら、3年間を過ごしましたね」
ただ、夏休みが始まり1週間が過ぎたころ、田臥は最も厳しい練習がスリーメンでもシャトルランでもないことを知ることになる――。能代工業から巣立ち、全国に散ったOBの面々が、続々と体育館に戻ってきた。
「最初は大学生、その後に実業団でプレーしているOBが来てくれるんです。しかも、OBたちはチームメイトを誘って来てくれる」
インターハイ直前の最終調整として、まさに大学選抜、そして日本代表といっても過言ではない面々とのOB戦が行なわれた。しかも、夏の夜の一大イベントとして、この試合は大勢の市民で客席が埋まる。
田臥は1年生のとき、OB戦でマッチアップした選手を強烈に覚えている。長谷川誠――。能代工業OBで、1994年、松下電器に入社した1年目にチームをリーグ優勝へと導き、新人王とMVPを同時受賞。
1995年、福岡ユニバーシアードでアレン・アイバーソン(元フィラデルフィア・76ersなど)率いるアメリカ代表にこそ敗れたものの、日本を準優勝に導き、自身は大会得点王に輝いた名選手だ。
高校1年生の田臥がマッチアップしたのは、長谷川の全盛期といっても過言ではない1996年のこと。
「どれだけ押してもビクともし