【国内バスケ】田臥勇太が語る「能代工時代の憂鬱な夏」
今年も夏がやってきた。3年連続3冠(高校総体/インターハイ、国体、全国高校選抜/ウィンターカップ)を成し遂げた能代工業高校を率いた田臥勇太は、この季節が来ると思い出す。
「あの夏、もうコテンパンにやられましたね」。無敗を誇った『必勝不敗』の軍団が連戦連敗を喫した、あの夏の、夜の憂鬱(ゆううつ)がよみがえる――。
秋田県北部、海沿いの町――能代。能代工業バスケ部に入部直後、神奈川県横浜市からからやって来た、まだ少しほほのふっくらした少年はつぶやいた。
「高校の練習って、こんなに厳しいのか」
繰り返されるフットワーク練習、いつ終わるやも知れぬシャトルラン。
「どんなにキツくてもやるしかない。この練習を代々、先輩たちもやってきたんだ」
もちろん当時の田臥勇太は、その練習の先に、史上初となる3年連続高校3冠を獲得することも、自身が日本人初にして唯一のNBAプレーヤーになることも知る由(よし)はない。
そもそも、コートサイドの加藤三彦監督が叫んでいる秋田弁の意味すら知らない。
「こいこさ!」
フリーズする田臥に、チームメイトが慌てて駆け寄って教えた。
「早く行け! 監督が『こっちに来い!』って言ってるぞ!」
夏休みに入り、練習は午前・午後の2部練習となった。午前は9時から2時間~3時間。午後は3時から再び2時間~3時間の練習を部員はこなした。
「夏の練習が一番キツかったですね。2部練なんで、単純に時間がいつもの倍。当然、フットワークもいつもの倍。能代の夏がさほど暑くないのが、せめてもの救いでした。そのかわり、冬はものすごい寒さでしたけど」
午前中は個々のスキルアップや体力アップを主目的とした練習、午後は戦術寄りの練習が多かった。
キツかったメニューのひとつが、3選手でパスを交換しながらコートを往復するスリーメンだ。何往復するかは、監督が黙ったまま差し出す指の本数が合図となる。
「3往復くらいまでは想定内なんですけど、先生の指が4本、5本となると、内心もう、『マジか!?』って。もちろん、驚いた顔なんてできませんでしたけどね」
ただ、「もっとキツかったのがシャトルラン」と田臥は続ける。
「ボールを使った練習は、やっぱりバスケなんで、なんだかんだいって楽しめるんです。でも、ボールを使わないシャトルランは……」
フロアを5往復。真夏の体育館に、バスケットシューズがこすれる音だけが響き続ける。
しかし、中には巧妙に、ライン手前でターンをする上級生もいたという。
「サボるのがうまい人がいるんです。下級生はちゃんとラインを踏まないと、後でとんでもないことになるんですけどね(笑)。
基本的には小さい選手のほうが速いんで、大きな選手でズルをする選手がいたりすると、『なんで大きい選手より遅いんだ!』って先生が怒り出すんです。だから、下級生はもう死に物狂いで走ってましたね」
では、はたして上級生となった田臥は、ちゃんとラインを踏んでいたのか?
「僕は遅くてもちゃんとラインを踏んでましたね。『ちゃんと踏んでるんだから遅いんだよ』って開き直るタイプでしたから(笑)」