■普天間飛行場、もとは田んぼ→戦前は9千人超生活
百田尚樹氏が「田んぼで、何もなかった」とする米軍普天間飛行場が建設された場所は沖縄戦の前、
宜野湾村の集落があった。宜野湾市史によると、1925年は現在の飛行場に10の字があり、
9077人が住んでいた。宜野湾や神山、新城は住居が集まった集落がほぼ飛行場内にあり、
大山などは飛行場敷地に隣接する形で住宅があった。
最も大きかった宜野湾は村役場や宜野湾国民学校、南北には宜野湾並松と呼ばれた街道が走り、
生活の中心地だった。
飛行場は、まだ沖縄戦が終結していない45年6月、住民が収容所に入っているうちに、
米軍が土地を占領して建設を始めた。住民は10月以降に順次、帰村が許されたが、
多くの地域は元の集落に戻れず、米軍に割り当てられた飛行場周辺の土地で、集落の再編を余儀なくされた。
市立博物館の担当者は百田氏の発言に「人々が戦争で追い出され、何もなくなるまでの過程が抜け落ちている」
として認識不足を指摘した。
以下略
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150627-00000010-okinawat-oki