70年の不平等にノー=政治家2人の「足跡」ー沖縄【戦後70年】
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在日米軍専用基地の74%が集中する沖縄。
普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古沿岸への移設問題で、政府との距離がかつてないほど広がっている。
米軍基地の存在を一定程度容認してきた保守層が革新勢力と組み、「オール沖縄」で本土に対峙(たいじ)する構図になった。
鬱積(うっせき)した思いが日米安全保障体制を揺さぶっている。
1人の議員と元名護市長の「足跡」をたどり、 沖縄の現状を浮き彫りにする。(敬称略)
◇いつか来た道
「ウチナンチュ(沖縄人)の尊厳を傷つけた」「70年も基地との共生を強いられた」。
3月21日、辺野古の海を一望できる浜辺で開かれた抗議集会。
仮設の演壇から飛ぶ激しい言葉に、主催者発表で約4000人の参加者が拍手で応えた。
移設作業が進む海上では連日のように、反対派と海上保安庁のボートが怒号とともにぶつかり合っている。
「きれいな海やサンゴ礁を守るのも当然だけど、その先にあるのは何か考えてほしい。沖縄はまた日本の防波堤にされるよ」。
集会に足を運んだ衆院議員・仲里利信(78)が帰り道にとつとつと語り始めた。
8歳だった1945年3月、沖縄戦が始 まった。
ガマ(洞窟)で息を潜めていたら、銃剣を持った日本兵3人が入ってきた。
泣きやまない3歳の妹といとこ。毒入りのおにぎりを渡され、「これを食わせろ」と命じられた。
「死ぬときは一緒」と親族でガマを出た。逃避行の中、1歳の弟が餓死した。
米軍の本土侵攻を遅らせるための 「捨て石」にされた沖縄。
県民の4分の1に及んだ犠牲者の中に祖父と父もいる。
靴メーカー勤務を経て30歳のころに草履工場を興し、自民党参院議員の後援会に入った。
推されて92年の県議選に初出馬。当選を4回重ね、保守系の重鎮と言われるまでになった。
普天間の県内移設も、当初は「苦渋の決断」と認めた。
県会議長当時の2007年、転機が訪れた。沖縄戦の集団自決をめぐる教科書検定で「軍の強制」の記述が削られた。「これだけは譲れない」と抗議の県民運動の先頭に立ったが、当時も首相だった安倍晋三との面会はかなわなかった。
「こんな自民党政権には協力できない」とその時、思った。
いかそ
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