佐世保に押しつけ「黙りたくない」 平和と軍需と長崎の70年
〈略〉
悪夢がよみがえる警報は、国籍不明機が九州北部に飛来したため発せられた。四日前に朝鮮戦争が始まっていた。
市は平和宣言を採択し、軍都から「百八十度の転換」を模索していた。旧軍港市転換法は特定の自治体だけに
適用される法律のため、憲法で住民投票が必要とされた。これに97%が賛 成した。しかし朝鮮戦争で米兵とともに
ドル札が押し寄せると 空気が変わった。飲食店は、リンゴ箱などに札を足で押し込み客をさばく特需に沸いた。
平和宣言はなし崩しとなった。米軍は基地を開設し、市は海上警備隊(後の海上自衛隊)を誘致する。
憲法で戦力の不保持を掲げながら、「自衛」という名の武力保持へと方向転換した日本の姿そのものだった。
米国の原子力空母エンタープライズや放射能漏れ事故を起こした日本の原子力船「むつ」…。
被爆県の佐世保の港に「核」は次々、訪れた。
高校生の時に抗議活動に参加した篠崎正人(68)は二十年以上、米軍基地を双眼鏡で監視している。
九二年、「アジア重視」を理由に二隻の揚陸艦が配備された。バーで知り合った米軍の下士官は
「米国内の基地が閉鎖になったから」と話し、別の米兵は一隻を「おばけがでそうな老朽艦」と言った。
「冷戦後の基地縮小で置き場のなくなったものを押しつけら れている」。
米国防総省に情報公開請求したりするうちに、疑惑は確信に変わった。
元市長の辻一三(いちぞう)(故人)の著作には原子力潜水艦入港時の有力者の発言が記されている。
<佐世保は(中央から遠い)足の裏。汚れるなら顔より足の方がいい>
数万人が反対集会に集まったエンタープライズ入港から約半世紀。基地に反対する人々は
今も月一回、中心部の四ケ町商店街を「平和のために」とかかれた横断幕を掲げて無言で歩く。
宮野和徳(70)は妻由美子(67)を含め、たった三人で歩いたこともある。
「時にはばからしいとも思うけど、黙りたくない」
二〇〇二年から年一回、同じ通りで地元の自衛隊が創立記念パレードをするようになった。
米軍や自衛隊の協力を得てさま ざまなイベントを仕掛ける四ケ町商店街は今「日本一元気」と
注目を浴びる。商店街協同組合の理事長、竹本慶三(65)は胸を張る。
「われわれは基地の街として自信を持っている」
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015041602000135.html